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2014年12月8日月曜日

投稿記事「電子高と私」2-3 2年9組の思い出


船岡先生と副担任梶野先生
電子高校2年目のクラスは9組。本館の2階だったと思う。端っこで階段のそば。部屋は広かったような気がする。担任は物理の船岡先生。新潟出身で大学院を出てまだ間もなかったと思う。とても真面目できりっとした感じの先生だった。このクラスには副担任がいて公立高校教師を引退してきたと思われるベテランの梶野先生。担当は数学。関西弁で話す先生だった。この先生が実はなかなかの人だった。

担任と副担任は何かと対照的で、一方は真面目一徹で、あまり、というより全く無駄なことは口にせず、ましてや冗談の類は叩かない。授業が特にそうだった。

どうも記憶がはっきりしなくて船岡先生の物理の授業は1年生の時に受けたような気もするが、それはともかくとして、私は文系人間で理系は苦手。特に物理は大の苦手。先生の話はちんぷんかんぷんで何を言ってるか正直言ってわからなった。理解しようと努力する前にそういう話は私の頭がそもそも受付けてくれないのだ。人間には関心があるけれど、物には不感症にできてるらしい。

こうなると、私みたいな人間はじっと我慢して聞くしかないが、それも限界があって1年も続けられるものではない。となると内職するか、朝なら早弁するか、もしくは起きてるふりをして寝るかくらいしか選択肢はない。しかし、先生は話し方、動作に「あそび」というものがない。いわゆる余白というか隙というものがない。だから、何か具合いの悪い場面でも見つかろうものなら「こら~っ、何やってるんだ!!」と鋭い叱声が飛んできそうで、怖くてただただ時間が来るのをじっと待つ以外になかった。

もう一方の梶野先生は、余裕綽々としていて見るからにベテランの雰囲気を醸し出していた。しかし先生に余裕があると生徒にも伝播して緊張感が緩んでしまうもの。それがいい方へ行ってリラックスした雰囲気の中で勉強が捗ればいいが、夜更かし組みや早朝起床組みの生徒にとって緊張感が緩むとは、睡魔への誘いとほぼ同義語であって、勉強が身に入ることと無関係の関係にある。

しかも先生はしばしば話が脱線してしまう。こうなると状況が更に悪化する。寝ることへの罪悪感は消えてしまい猛烈な睡魔が襲ってくるのであった。

その上もう一つ悪いことがった。先生の話し言葉である。
 
先生は関西出身者らしく関西弁で話すのだが、早口で元気のいい浪速や河内弁ではなく優雅でおっとりした京風なものだから、眠りかけてる生徒には子守唄を聴かされているような具合いになる。こうなると、こっくりこっくりするな、という方が無理である。他の生徒にとっても緊張感が緩んでくれば集中力が無くなってヒソヒソ話をし始める生徒が出始める。

しかし、流石だと思ったのは、梶野先生はそこをちゃんと計算していたことだった。他の先生なら

「こら~、静かにしろ」

と正攻法で言うものだけれど梶野先生は違う。

「・」

ほんの一瞬、急に甲高い声で何か言うのだが、早すぎて何といってるか聞き取れない。敢えて言えば「しっ」とか「やっ」というような「音」としか言いようがないのだけれども、それよりも短いのだ。これが絶大な効果を発揮し教室はたちどころに静かになる。

 それまではにこやかに話していた人からは想像もつかない声、いや音に、生徒はびっくりして恐れおののき氷ついてしまう。

経験上多くの人は知ってはいると思うが、その人の普段のイメージや雰囲気からは程遠い言葉なり行動を突如として見せつけられると、相手はあっけにとられて、一体何が起きたか飲み込もうとして沈黙してしまうものである。それが昂じると恐怖でパニックになることもある。

梶野先生はこれを上手く使ってクラスをコントロールしていたのではないだろうか。リタイア組の先生は多かったが、こういう技を披露する先生は梶野先生だけだった。「職人芸」などと大袈裟に言うつもりはないが、なかなか良く考えた技ではなかったかと思う。何十年という教壇体験から自然に身につけたものなのかもしれない。


船岡先生の素顔
私の記憶が正しければ、船岡先生は確かこの年に結婚した。というのは1年の時から一緒に2年9組に移ってきたC君と、もう一人剣道部のU君だったと思うがクラスを代表して結婚式に出席したことを覚えているからだ。特別理由がなければ担任以外の先生の結婚式に出席するはずはない。

 実は結婚前、そのU君とC君と私の3人で西多賀だったか三女高の近くに一人住まいしていた先生を訪ねて行ったことがある。長屋みたいなところで一人住まいしていた先生は、学校で普段見かける生真面目でちょっと近寄り難い面影は全くなく、ニコニコしながらとても嬉しそうに迎えてくださった。そして普段教室では聞けない話を聞いたり、写真を見たりして楽しく過ごした。困ったことがあると親身になって話を聞いて下さったりと、教室ではわからない先生の一面を垣間見る思いだった。

 そういう先生の素顔にすっかり甘えてしまった私は、大学卒業後も訪ねて行ったことがある。いろいろご迷惑もお掛けした。この紙面をお借りしてお礼かたがたお詫びしたい。

最近、船岡先生にお会いする機会があった。昔と全く変わらず若々しくてびっくりした。私はもう白髪だらけ、頭もかなり禿げ上がっている。第三者からみたら、私のほうがむしろ歳上に見えたのではないだろうか。

船岡先生には、いつまでも若々しく元気で第二の人生を楽しんで頂きたいと切に願う次第である。



*次回は他の先生とクラスメイト、その時に起きた出来事などを中心にお話しする予定ですが、再来週の帰国の準備で忙しくなっており投稿が遅れるかもしれません。予めお断りいたします。


 




 




2014年11月30日日曜日

私の日記から N03 「ある同窓生からのメッセージ」   

今回は、談話室へある同窓生からメッセージが入りましたので、それをご紹介します。

私が電子高を強く意識した時  11月12日   相澤 1977年電子高卒

こんにちはケアンズ素晴らしいですね~ケアンズ生活は長いんですか~仙台も今日の最低が0度で冬の曲がり角が一日一日近づいて来てる感じがします。

私が母校電子高をまた意識した経緯が有ります

530日電力ホールで足かけ10年仙台を拠点に活動をしていたアコースティク・デイオ・イケメンズの一人横山君が工大高出身で応援して来た次第です彼らを応援して来た三年間は電子高を強く意識してました。イケメンズの話しになると長くなりますので、今度帰国なさった時続きお話しします

城南高も高校サッカー選手権大会県大会でベスト4入りしました~TVで学校案内をガンガン放送しております。菊池先輩も健康に留意して仕事頑張って下さい。

追伸電子高初の国会議員自民党の土井亨とは同期です。


*相澤様のメッセージへのコメント
心温まるメッセージどうも大変有り難うございます。電子高にもいろんな分野で活躍し
てる人がいるんですね。いつも思うんですが、特に音楽には国境がありません。人の心を捉え、感動させることができるなんて素晴らしいですね。土井氏にも主義、主張はともかく「電子高同窓生もなかなかやるなあ」と言われるような政治家になれるよう頑張って欲しいですね。ところで横山氏はまだ活躍されてるのでしょうか。
 
私はこの同窓生談話室を通し、同窓生の歩んできた歩みを電子高並びに工大高、そして昭和の記録として残したいと考えてやっているわけですが、もう一つ、将来的には二つ目のゴールとして、様々な活動や同窓生のネットワークを活かしながら同窓生や城南高の後輩の応援、サポートをしていきたいと考えております。
 
そして皆様が同窓生の枠を超え、「良き家庭人」として「良き住民」として「良き職業人」としてより一層活躍していって頂きたいと考えております。
 
つまり「電子高・工大高同窓生談話室」を超える「電子高・工大高同窓生談話室」にしていきたい、これが私の願いです。
 
今後とも皆様からのご協力、宜しくお願い申し上げます。

2014年11月26日水曜日

投稿記事「電子高と私」2-2 汽車通学が始まった

 汽車通学が始まった   いよいよ師走に入ります。最後まで頑張りましょう!   
私が汽車通学を始めたのが1970年(昭和40年)で大阪万博があった年である。私が利用した汽車はもう電化されていたが、車両は蒸気機関車時代のままのもので全て対面式。車両は今に比べたら長く、短い汽車でも6両編成くらいはあったと思う。私の利用した列車は朝の一番混む時間帯に走るのでかなり長かった。10両以上はあっただろう。それでも瀬峰駅、小牛田駅でかなり乗ってきて鹿島台駅を過ぎると空席がめっきり少なくなる。塩釜駅を過ぎるとほぼ満席になり山王駅、岩切駅から乗る人は座るのはまず無理だった。
 

10両編成で前沢-折居を走る 画像提供「80s 岩手県のバス“その頃”」http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/

この2年前に東北本線が全面電化されたが、陸羽東線ではまだ電化されていなかったからー今でそうかもしれないがー小牛田駅では蒸気機関車を時折見かけた。冬になるとラッセル車がよく停まっていた。
 
当時この駅にはまだ駅弁売りがいて、小牛田駅の名物は小牛田饅頭。この饅頭を食べたことのない人は私の町ではまずいなかっただろう。今でも駅の売店で売っている。また3年生の時、帰りに空腹が我慢できず駅弁を買って食べたことが一度だけある。それから、ここの駅の名物は饅頭だけではない。アイスクリームが美味しく今でもあの味が忘れられない。スーパーやコンビニで売っている高いアイスクリームよりとてもミルキーで自然な味がする。もっとも、今小牛田で同じアイスクリームを売ってるかどうかわからない。

車両の中
「80s 岩手県のバス“その頃”」から
 
さて、私が乗り降りした石越駅というのは宮城県の北のはずれにあって岩手県境から何キロと離れていない。石越駅の一つ先の駅は油島というが、ここはもう岩手県の花泉町になる。この町の高校や一関市の高校へ、当時、今もそうだと思うが石越駅から沢山通学していて、駅前の貸し自転車屋はいつも一杯だった。

私が朝利用した列車は石越駅を6時11分に出た。それに間に合うように5時半前には起きて、急いで身支度し顔を洗って朝ごはんを食べる。そして5時50分には自転車で家を出た。石越まで2kmの道のりは、幸いにして平坦で舗装道路だし10分とかからない。

石越駅
http://jp.worldmapz.com/photo/379239_ru.htm
貸し自転車屋に自転車をおいて6時過ぎに駅に着くといつもの人間が集まってくる。仙台まで2時間かかるから通勤する人は多分いなかったと思うが、通学する人は10~15人位はいただろう。でもほとんどは学院などの大学生だから毎日6時11分の汽車で行くわけではない。

毎日顔を合わせるのは予備校生2人と高校生2人の計4人だけ。この4人は今でもよく覚えている。予備校生は私の同級生のお兄さんで地元の高校を出た人。2浪目だったが翌年東北大に合格した。もう一人は築館高校卒の人でちょっと風変わりな人だった。高校生は私と仙台電波高の3年生。
当時の仙台駅

汽車は石越駅を出て仙台に着くのが8時過ぎ(正確な時間は忘れた)。この汽車を逃すと次の汽車では学校は間に合わないが、2年間汽車が遅れたことが一度もなかった。これは実に幸運だったとしかいいようがない。

仙台に着くと急いで駅を出て仙台ホテル前のバス停からバスに乗って8時半過ぎに学校へ着く。

船岡先生と副担任梶野先生
電子高校2年目のクラスは9組。本館の2階だったと思うが端っこで階段の側。部屋は広かったような気がする。担任は物理の船岡先生。新潟出身で大学院を出たばかりという感じのいかにも真面目そうな先生。このクラスには副担任がいて公立高校教師を引退してきたと思われるベテランの梶野先生。担当は数学。関西弁で話す先生だった。この先生が実はなかなかの人だった。

(つづく)
 

 

 
 









2014年11月19日水曜日

投稿記事「電子高と私」2-1 汽車通学

いよいよ、2年生の思い出に入ります。

汽車と私の馴れ初め
そんなわけで、私は2年の時から汽車通学を始めることになった。それにしても、三日坊主で大の怠け者である私は、それまでのだらだらした生活から180度違う規則正しい生活を送ることが果たしてできたのだろうか。
 
今までと違い朝5時半に起きなければならないし、仙台まで片道2時間椅子に座り続けなければならない。それから仙台に着いたらバスにも乗らなければいけない。今までは家から学校まで1分弱で済んだ通学時間が、今度は3時間近くかかることになる。生活サイクルをそんなに大きく変えることに全く不安はなかったのかと尋ねられそうだが、実のところ全くなかった。むしろワクワクしていたくらいである

実は私は汽車が大好きで、子供の頃、一番最初に夢見た職業は汽車の運転手だった。お金を払うどころか、逆にお金を貰って旅ができるなんてこれほどいい仕事はない、と子供心に思っていた。それはNHKTV番組「みんなの歌」から流れていた「線路は続くよどこまでも」に多分に影響された面もあったように思う。なんでもこの番組は昭和36年4月に始まったそうで、つまりは私が小学校2年生になった時。我が家にTVが入ったのはそのちょっと前だったからほぼ同時期だったといっていい。
 
それで思い出したことがあるので、昭和が遠くなりゆく今、当時を知らない若い人のためにと、ちょっと回り道をしてみよう。

我が家にTVが入った頃、家はまだ茅葺き屋根で囲炉裏もあった。風呂と便所は母屋からはちょっと離れていた。風呂はまだいいとしても便所までちょっと歩かなければいけなかったということは、今考えてみると随分と不便な生活をしていたんだなあとあらためて思う。

ところで便所と言いうとなんとなく汚いイメージになってしまうのでトイレと言いたいところだが、水洗では勿論ないし、あれはまぎれもなく便所としか言いようない。

寒い冬、私の住んでた町は築館よりは幾らか暖かい場所だが、それでも当時だったら朝晩の寒い時で氷点下10度以下になることはあっただろう。そんな時、掘っ立て小屋よりも粗末な隙間だらけの便所で用を足していたのだから、今これを書きながらとても信じられない気持ちになってしまった。よくそれで不満も言わず生活していたものだ。

でも当時はテレビがあるわけでなし、他所の生活がどんなだったかもわからない。それが当たり前の生活だと思って暮らしていたわけである。

食生活も全く質素そのもので、夜は囲炉裏で雑炊やすいとん(家では「つめり」と呼んでいたが、これは宮城県北から旧伊達藩の水沢・江刺当たりまでの呼び方だったらしい)をよく食べた記憶がある。小学校低学年の時、弁当に卵焼きが入っているとそれはご馳走の部類だった。

田舎の子供の憧れ
食事時は皆でラジヲをよく聞いていた。その頃ラジヲから流れていた歌ですぐ思い出すのは島倉千代子の「からたち日記」と、歌手は覚えてないが(調べたら倍賞千恵子と書いているが)「母さんの歌」である。「母さんの歌」はよく流れていたので、今でも歌詞の一番目はすらすら出てくる。それで歌詞の2番目以下まで拾ってみたら、
        

       1 母さんは夜なべをして手袋編んでくれた
         木枯らし吹いちゃ寒かろうとせっせと編んだだよ
         故郷の便りは届く
         囲炉裏のにおいがした

       2 (略)
         (略)
         故郷の冬は寂しい
         せめてラジヲを聞かせたい

       3、4 以下略


2番目は「せめてラジヲを聞かせたい」で終わっている。私の母が手袋を編んだことがあったかどうか忘れたが、それ以外は私の家と変わらない風景だったのでちょっと驚いてしまった。でも考えてみれば、当時どの家も大なり小なり似たようなものだった。

そんな私の田舎にもその頃、TVが急に普及し始めた。近所では最初に床屋にTVが出現した。珍しくてそれ見たさに、時々出かけて行って窓越しにTVを見た。しかし、プロレスなどの人気番組がある時は、沢山人が集まってくるので私のような子供は背が低いから混んでて見られなくなる。そんな時は道路隔てて反対側にある神社の塀や木に登ったりして見ていたものである。

そしてやっと我が家にTVが入ったのが小学校1年生の時。そしてほどなく始まったのが先ほどの「みんなの歌」だった。私の大好きな歌番組だったから毎回TVを食い入るように見ていた。


この歌番組では「線路は続くよどこまでも」を始めとして「おお牧場は緑」や「森へ行きましょう」とか「大波を超えて」とか綺麗な景色が、東京放送児童合唱団や西六郷少年合唱団のコーラスとともに目の前に次から次へと飛び込んでくる。それらはラジオでは絶対に味わえなかった映像の世界だった。それまで遠くといえば母親の実家がある一関くらいしか連れてってもらったことがなかった私には、TVに映る風景は今まで見たこもない綺麗な景色ばかりで、全てがきらきら眩しいほどに輝いていた。「線路は続くよどこまでも」を聴きながら、私も列車でそんな土地へ行ってみたい、という気持ちが芽生えるのは当時の田舎の子供達だったらごく自然のことだったのかもしれない。
 
  
*次回は「汽車通学が始まった」(仮称)をお送りします。
 
*いろり画像:http://irori.yuyado.net/vacancy/planlist.html
*線路画像;http://8quest.net/weblog/photolog/2142


2014年11月4日火曜日

私の日記から ケアンズ紹介 11月01日


私の日記から 「ケアンズというところ」  11月最初の日記です!
  
私が住んでいるケアンズについて、この日記を借りて時々お話したいと思います。

ケアンズはオーストラリアの北部東海岸に位置する人口約17万人の観光地。緯度で言うとフィリピンのマニラくらいの位置に相当します。雨季は12月末から3月一杯。サイクロン(台風)は数年に一回程度やってきます。乾季は6月から11月頃まで。

シドニーから飛行機で約3時間、ニューギニアの首都から2時間ここは世界一のサンゴ礁で知られたグレートバリアリーフの玄関口で、日本からは直行便が成田と関空から毎日出ています。飛行時間は約7時間半。日本との時差は1時間。

産業は観光の他にサトウキビ、近郊ではコーヒー、マンゴー、バナナなどの熱帯系の果樹栽培が盛んです。

そこで今日は、ケアンズの街と今季節を迎えているマンゴーの写真をお届けします


カジノから向こう岸の眺め

手前HILTON HOTEL


いずれも家の近くのマンゴー
フィッツロイ島のツアーパンフから
 

投稿記事「電子高と私」野球部を辞めてから

6 野球部を辞めては見たものの 11月最初の投稿。日記もどうぞ!                   
   
怠け者の成れの果て
野球部を辞めて、暫くは厳しい練習から解放されほっとした気分に浸っていた。しかし、ここでもいろいろ予期しない問題が出てきてしまう。

授業終わると部活がないから家に帰るが、大の勉強嫌いだから家で勉強するわけがない。それに宿題もない、補習もない、また模試のようなものもあるわけではなかったから私のような怠け者は勉強しなければという気持ちがサラサラ湧いてこない。級友で予備校に通ってる人もいたというのに、私はまるで関心がなかった

それなら夢中になれる趣味のようなもがあるか、というとあるわけでもない。じゃあ、家に帰る途中、中学校時代のように草野球や卓球なんかできるようなところはあるかというと、それもない

私が住んでいた家は、実は電子高と目と鼻の先にあって校門から歩いて1分とかからない。ご存知のように、あの当たりには道草できるようなところはないから学校が終われば真っ直ぐ帰るしかない。そうなると学校が3時に終わったら翌日受業が始まる朝の9時近くまで約18時間を家で過ごすことになる。

それにもう一つ困ったことは、家に帰っても誰も居ないこと。話し相手の一人もいれば気が紛れるが、そういう人もいない家だった。

前にも話したとおり、実家は栗原にあるのだけれども、父が仙台で会社勤めしていたし、二つ上の兄が仙台の高校に、私も仙台の中学に通いだしたから、それならと三人で住めるよう電子高に隣接していた会社の土地を買ってちっぽけな家を建てていた。

母親はたまに栗原から出て来るが、炊事洗濯をしたらまた帰っていく。向こうには祖母がいるし、小さいながらも店もやっていたから長居はできない。父は仕事で、兄は高校の部活で遅く帰ってくる。だから私が学校から家に帰ってくると誰もいない日がほとんどで、ガランとした家に一人ぼっちでいた。

とにかく野球部をやめたら、これだけ「ない」「ない」づくしの生活だったのである。これだけ何もないと退屈なんてものではない。

「平凡パンチ」と「全員集合」で過ごした私の青春??
そんな時だった、あの雑貨屋で平凡パンチやプレーボーイを立ち読みしだしたのは。「苦肉の策」といったら笑われるけれども、家でぶらぶらするよりは少しはマシと家にはまっすぐ帰らず、わざわざ坂道を登りバス通まで出る。あのへんの店をぶらぶらし、雑誌を立ち読みしては違う坂道を降りてきて家に帰る、ということを繰り返すようになった。

夕食後はTV三昧。思い出すのは土曜日夜のドリフの「8時だよ全員集合」(私が電子高に入学した1969年の10月から始まった)、それから何曜日だったかコント55号のコントもかかさず観ていては笑い転げていたのだが、そんな私を父親はどんな気持ちで見ていただろう。

まことにもって情けない話だが、これが私の高校1年の時のありのままの姿だった。貴重な青春の一時期を無為無策、無益無駄に過ごしてしまった。勿論、そのつけ、代償は今に至るまで続いている。

公立高校に落ちた時、実は幾つかの選択肢はあったが、私は迷わず電子高に決めた。というのは受験に失敗した身で市内に出ることにはためらいがあって、市内の他の私立に行く気はなかった。そうなると電子高しかない。しかも、始業時間ギリギリまで寝てられるなんてこれ以上言うことはない。勿論、電子高を受けた時はそんなことまで考えていたわけではないが、実際に入学してからこういうことが起きるとは誰が予想しただろう。

まあ、これは自業自得、自分で自分の首を絞めるようなことをしてしまったわけである。

小倉先生の一言
このように毎日ぶらぶら、だらだらしていたから、成績は当然のごとく急降下。2学期目ですでに成績はがくんと下がり、3学期の期末試験の成績は、怠け者の私もさすがに「やばい」と気がつくレベルまでに落ちていた。普段あまり学校のことに口出ししない父親もさじを投げたのか

「大学は入れるところへ入れればいい」という始末。

また3学期のある日だったと思うが、野球部顧問の小倉先生と校門のところでバッタリ遭遇したことがある。その際、先生はたった一言、

「おい、どうだ、勉強の方は。野球部辞めて成績落ちたべ」

と、あたかも私の成績を知っているかのごとく喋ったので正直いってギクッとした。しかし実際はその通りだっただけに「えっ、あ、まあ…」というだけで精一杯。

それにしても先生は何故、私の成績を知っていたんだろう。それとも、口からでまかせで言った可能性もある。ただ、この言葉を私流に言い直せば「野球部を辞めたってどうせろくなことはないんだよ」ということ。そう考えたら、とても惨めで悔しくてそれからずうっと大学に合格するまで頭から離れなかった。その時私は、

『ようし、見ていろ、俺は先生が考えるような人間じゃない!!』

と心の中で叫んでいたような気がする。

今にして思うのだけれども、小倉先生のこの言葉で私はだらだらした生活にいい加減見切りをつけようという気持ちが芽生えたのではないかと思っている。

しかし、どうしたらこういう状況を打開できるだろう。高校生活も、もう一年が過ぎようとしている。受験までもう2年もない。高校受験で失敗したから大学受験で見返してやるぞと誓って電子高に来たのに、このままでは俺はまた大学受験でも失敗することになる。

そこで藁をもすがる気持ちで早速、受験雑誌を買ってきて今の怠惰な生活サイクルを打ち破る方法はないものかと読みあさリ始めた。

そして、旺文社の螢雪時代に出ていたある受験体験記に釘付けになった。

『これっだ!』と叫んだかどうかわからないが、ピ~ンときた。

怠け者は汽車通学に限る
それは片道2時間の汽車通学をしていた磐城高校生が東大に現役で合格したという体験記。汽車通学での時間がいい勉強時間になったという話だった。

怠け者の私にはこれはピッタリの勉強方法だ、というよりもこれに勝る勉強方法はないと直感した。何故なら勉強嫌いの私は机に向かっても長続きせず、すぐレコードをかけたり、雑誌に手を出したり、TVを観たり、腹が減ったといっては台所に行ったり、さらには爪があまり伸びてもいないのに爪を切ったりと全く落ち着きがなく、結局は勉強はほとんど手につかないまま終わってしまうのが常だった。

しかし、汽車ならTVやラジヲがあるわけで無し、レコードプレーヤも無い、台所があるわけでもない。立ち読みする本屋もない。ナイナイづくしだから考えてみればこれほど勉強に適した環境はない。椅子に座ってとにかく本を開けばいい。そしたら2時間は席を立つ場所がないから黙ってでも勉強に集中できる。そしてもう一つ、汽車は石越~小牛田間はがらがらに近いから大きな声を出してもあまり迷惑にならない。これは語学系の英語、古文、漢文の勉強にもいい。

ちょうど実家の近くの国鉄石越駅から仙台駅までほぼ片道2時間。往復で4時間ある。調べてみると、朝一番の汽車で行くと仙台ホテルの前のバス停からすぐ乗って始業時間には十分間に合う、ということが分った。それで2年生から汽車通学することにして、それまでのだらけた生活から、自分を程々に縛り足かせを履かせた規則正しい生活を送ることになった。

その詳しい汽車通学は、次回以降お話しするが、結果的には成功だった。これも、小倉先生のあの一言で感じた「なにくそっ」という悔しさが常にバネになっていたからではないかと改めて感じている。

この紙面をお借りして小倉先生に感謝の気持ちをお伝えしたい。


*余談になるが、この電子高校舎の建設を請け負ったのが父の勤めていた土建会社である。もっとも比較的小さな会社だったから、鹿島や大成のようなところとJV(共同事業)でやったと聞いたような気もするが、そのことと会社の土地が電子高の側にあったことに何の関係があるのかはもうわからない。しかし、そういう事情があったから、父はこの学校の内側をいろいろ知っていたようで、私がこの学校に行くことになった時も「この学校は郵政互助会という郵政省職員の福利厚生団体が運営している。だから資金的にはとてもしっかりしているぞ」とよく私に話していたものである。要するに「この学校は潰れることはないので安心しろ」と言いたかったらしい。

しかし15歳の私は、ただ「ふん、ふん」と聞いているだけだった。

*次回から2年生の思い出に入ります。












2014年10月26日日曜日

投稿記事「電子高と私」野球部

5 野球部で三回目の挫折         10月最後の投稿記事です!

電子高に弓道部を

私は野球が大好きで小さいころプロ野球の選手になりたかったくらいだから、中学生になって迷わず野球部に入った。しかし練習があまりきつくて、情けないことに3ヶ月位で辞めてしまった。私にとって人生最初の挫折。

それから高校まで運動というと、2年の時に転校した仙台の中学校で内申書のためだけに入った卓球部の練習と、級友とやった草野球や卓球くらいのもの。この卓球部は野球部に比べたらまるで楽、練習は確か週に一回いけばOKというゆるいルールしかなかったから、放課後は級友と遊んでる方がいいと草野球をやってるほうが多かったと思う。それから民間の卓球場にもよく行った。

今もあるかどうかわからないが、当時、仙台駅前の日の出会館には映画館の他に卓球場があって学生で結構賑わっていた。私も級友とよく遊んだ懐かしい場所である。卓球場では音楽が四六時中流れていてシューベルツの「風」やらブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」、小川知子「夕べの秘密」、ダーツなどが歌ったコミカルな「ケメコの歌」など当時流行った曲を耳にタコができるくらい聴いた覚えがあるから随分足繁く通ったんだと思う。

その中学の卓球部には、勿論熱心な部員はちゃんといて真面目に練習していたことだけは付け加えておきたい。

そんな軟弱な2年間と9ヶ月を送っていたわけだから、体力がついたとはお世辞にも思えないのに高校でまたハードな野球部に入部してしまうとは、今考えると私にはかなり無謀な決断だったと思う。

それでも、あの野球部の「けいじ」さんから声をかけられるまでは結構殊勝なことを私は考えていたのである。

私は中学3年に志望高を決めた時、中学1年の時の体験はもう繰り返したくなかったから、合格したら練習のきつそうなクラブではなく、自分でもやれそうなクラブをと、その高校にあった弓道部に入ろうと決めた。父が弓道をやっていて小さい頃教えてもらったことがあるのも理由の一つである。

そして入学試験も思ったほど難しくはなかったので、まあ、落ちることはないだろうと思い、その時からその高校生になった気分で新しい生活に夢膨らみ心踊りとてもワクワクしていたことを覚えている。

ところが、まさかの撃沈。ここで2度目の挫折。人生、思い通りにならないものだと改めて知らされる。

その後も似たようなことがあって、それ以来私はもう何事も「絶対大丈夫」とは思わないようにしている。が、性格というのはそう簡単に変わるものではないようで、相変わらずおっちょこちょいでドジってばかりいる私である。それでも少しは「進化」したか、前と違って何かをやる時は最悪のケースも想定するクセはついたように思う。

それはともかく、その結果電子高に入学したのだが、ここには弓道部はない。

その高校に落ちた場合のことを全く予期していなかった私は、電子高に入っても弓道部への未練はなかなか消えず、それならいっそのこと弓道部を作ってみようかと考えた。幸いにもその考えに興味を示してくれた級友がいて、確かC君だったと思う。彼を誘って弓道部を作ろうと二人でいろいろ画策したことがある。だが、何が理由だったか忘れたが、うまく行かずその夢は露と消えてしまった。

野球部へ何故か入って「しまった」

それでも何か運動はやりたいと思っていたので、何か物欲しそうな顔でもして歩いていたのだろうか、入学式からしばらく日が経っていたのに体育館の入り口近くでまだ勧誘をやっていた野球部の、のち主将となる電子科の「けいじ」さん(東北学院大の野球部に入ったと聞いた)から声をかけられて「しまった」のである。そして何故か「はい」と言って「しまった」。

この2回の「しまった」「しまった」で私の第三の破滅、いや挫折への路がこの時敷かれて「しまった」

さっきも言ったように中学の野球部を辞めてから軟(やわ)な2年と9ヶ月の生活だったから体力がついたとはとても思えないのに、何故「はい」と言ってしまったのか、自分でもはっきり分からない。多分他に興味のあるクラブがなかったこと、それで他のクラブに入るならまだちょっとは未練のあった野球のほうが、という気持が働いて「夢よもう一度」とつい「魔が差して」しまったのかもしれない。

それで始まった野球部の練習は、やっぱりきつかった。ただ中学の時に苦労したマラソンが電子高野球部では比較的短かい時間で済んだせいか、その分だけは少し長くふんばれたように思う。そして夏休みに入って一週間くらいまで頑張った。しかし、結局は酷暑で体力が続かず辞めるのは時間の問題だった。皆に比べると田舎育ちにのくせに私は本当に体力がないことを、まじまじと思い知らされ情けなかった。

しかし両親に言わせると、体力の問題ではなくて「お前は根性がないから何をやっても三日坊主で終わるのだ」ということになる。

まあ、当たらずとも遠からず。遊びも習い事も新聞配達も何一つ長続きしたためしがなかったら、そう言われても仕方がない。それで、この辺りから私はかなり落ち込むようになっていき、気がついたらもうどうしようもないところまで行ってしまうことになる。

その話は次回にするとして、野球部での4ヶ月間は実際にどんなだったかというと…、

野球部の練習は辛かったけれど

練習は確かに大変だったけれども、不思議とあまり嫌な思い出はない。中学校の野球部は暗い灰色のイメージしかないのだけれど、電子高野球部での思い出は全く逆で、色で表せばオレンジと青空のブルー。それはきっと部の空気、部員同士の人間関係だろうと思う。中学校の野球部は部員が多かった。そして上級生も同級生も電子高野球部のように密ではなくて、何となくバラバラで私は誰かと話したとか、話しかけられたとかという思い出がなく疎外感というか孤立感みたいなものを常に感じていたように思う。

それに比べると電子高野球部は部員の数が少なかったせいもあるだろうし、仙台の開放的な土地柄もあるかもしれない。皆とは結構コミュニケーションがあってお互いが比較的近い存在として意識していたように思う。いつも元気一杯でガッツのあるけいじさんの人柄も大きいと思う。

けいじさんは常に我々に声をかけていた。勿論、ミスをして怒られることのほうが多かったが、「ばかやろう」とか「このやろう」ではなく、激励の意味を込めた叱咤の類で、良いプレイをすればちゃんと褒めてくれた。そういう意味ではけいじさんは下級生に対してもコミュニケーションの取れるとてもいいリーダーだったと思う。

嫌だったことを強いて挙げれば、何でもこのクラブの伝統だそうで連帯責任とかと称して同級生の誰が何をしたのかよく理由がわからないまま、バットを足に挟んで正座さらられたことが一回あった。これは確かに痛かった~。でも、あの恐怖の応援練習よりはいい。何故ならあの種の身体的な痛みはいずれ収まるが、恐怖はトラウマになってずっと後々まで残る場合があるからだ。心理的、精神的にはいいことではない。

同級生ではメガネを掛けた実直そうな荒君、明るくて誠実で真面目な小鹿君、大河原から来てた背の高いちょっといたずらっぽい菅原(孝)君等などがいた。私と同じで途中で辞めた佐藤君(台原中)もいた。小鹿くんは小柄ながら結局キャプテンになったはず。彼はまとめ役にはピッタリの人物だ。あとは名前は忘れたが、小鹿くんよりもずっと小柄で「珍念」なんて渾名がついていた電子科の同級生。私より体力は無さそうだと思っていたのに結局3年までやり通した。ハードな練習も辛い顔一つ見せずよくやっていた顔が忘れられない。温厚な性格だったから、今もきっと皆から慕われていることと思う。もう一人、郡部から来ていた電子科の彼も朴訥ながら人情味のあるいい同級生だった。

こんなこと書いていたら、なんか無性に皆に会いたくなってきたなあ。あっ、そうだ。この談話室で「人探し」やってみるのも悪くはない、と書きながらアイディアが浮かぶ。

上級生では、特に3年生は2年しか違わないのに随分大人びて見えたものだ。下手投げのピッチャーの確か赤坂さんという人はいつもにこにこしていたっけ。2年生もみないい人達だった。けいじさん、赤間さん、鈴木さんなど。ただ練習では草野球レベルの技量しかない私はよく怒られてばかりいたが。

特に、一塁の守備練習ばかりやらされていた私はセカンドの鈴木さん(名前は自信がない)へ送球すると、

「おい、お前、どこへ投げてんだよ、ちゃんと投げろよっ!!」

と何回言われたか。

石田先生は時々練習に顔を出しては熱心に指導していって下さった。「新兵」の1年生はただ聞いて見ているだけだったが、私は先生から直接声をかけられたことが一度だけある。練習中に「投げてみろ」と言われて、守備練習を中断しマウンド横の投球練習場で2年生の、体が大きくて当時すでに4番バッターで正捕手だった先輩(名前が思い出せない)めがけて何十球か投げてみた。私が左利きだったのでちょっと投手にどんなもんかと思ったのだろうが、黙ってみていて、それっきりだった。

合宿は二回経験した。でも覚えているのは寮(今もあるのだろうか)の大部屋で寝たことと夕食に食べた鯖しか記憶が無い。電子高からバス通へ向かって登っていく坂道の左手にある食堂の鯖定食が旨かった。

そして、夏。高校野球宮城県予選をベンチで経験した。公式大会でベンチを経験するなんてはじめての経験だったので、我ながらちょっと興奮した。そして一回戦で負けて、それから程なく私は野球部にサヨナラした。

県予選の時も、辞めた日も日差しがじりじり照りつける暑い日だった。
 
*次回は、「堕落の日々と救世主(仮称)」の予定です。



2014年10月19日日曜日

投稿記事「電子高と私」 応援団

  4 応援団に「ガン」をつけられた私    



入学早々11組で一騒動が持ち上がった。
 

級長に選ばれたC君が「俺がこんなことをしなきゃならないなら、もう級長をやめる」と級長放棄を宣言したのだ。この問題を巡ってクラスはその後、時間外に何度となみなで議論した。しかし、揉めに揉めてなかなか問題は解決しなかった。
 

なにせ古い話だから、事の顛末は正確に覚えてなくて、例えば、級長がどうやって選ばれたとか、またその時担任の小野寺先生はいたのかいなかったのかとか、また問題が最終的に解決したのかしなかったかもわからない。最後の件は私は途中から野球部の練習に入り議論には参加しなかったせいもあるだろう。
 


覚えているのはただ次ののようなことである。

 

級長をやりたくないというC君の気持ちはみな理解していたはずの我がクラスの面々、だが、代わりに級長をやれば今度はその人が「犠牲」になる。だからここは悪いけども貧乏くじを引いたC君に生贄、言葉がちょっとキツ過ぎたか、我慢してやってもらうしかないというのがみなの気持ちだったように思う。だからか誰も代わりに手を挙げる人はいなかった。
 

級長に選ばれると自動的に、つまり有無を言わせず応援団員にさせられた。そしてしぶしぶ応援練習にいったC君、まず先輩応援団員がやる新米応援団員の練習に参加した。それがC君にとってはもう二度とやりたくないというほど大変だったらしい。「こんなこと」というのがその応援練習だった。
 
その応援団員だけの練習が実際どういうものだったかは、今となっては当事者のC君に聞くしかないけれど、クラスの生徒はみな想像がついていた。というのは、ほぼ同時に始まった1年生全員参加の応援練習が腰を抜かすほど凄いものだったからで、一般生徒の練習でこうなら、みなのリーダーにならなければならない団員同士の練習なら更に気合の入ったもの凄い練習だっただろうことは容易に想像はつく。
 
私も野球部の練習が始まる前に何回かこの応援練習に参加したけれど、もう一回でこりごりだったし『こういう練習があることを知ってたら電子高なんか来るんじゃなかった』と後悔したくらいだから、C君の思いはいかばかりだっただろう。
 
その風景とは…、
 
放課後、屋上に集めらられた新米の1年生の周りを、怖そうな先輩応援団員が取り囲む。練習が始まるやいなや、団員が動き出す。中には目が釣り上がってすごい形相になる団員がいた。そしてあっちこっち歩きまわっては、今まで聞いたこともないような大声で、
「こらっ、なにやってんだっ、お前ら!!」
「もっと声を出せっ、この野郎!!」
突如、全く予期しなかった恐ろしい場所へ連れて来られたような気持ちになった。怒号、罵声が飛び交い、1年生はビクビク、おどおどしながら練習する。おそらく高校
へ入るで、こんなふうに人から罵られるように言われた生徒はいなかったので
はないだろうか。
 
はっきり言って、これは恐怖以外の何ものでもない。これじゃあ応援練習というよりシゴキ、といっては悪ければあの帝国陸軍の新兵教育である。まあ、あんまりかわりないか。
 
目をつけられるのは、大体は座り方が悪いとか、やる気の無さそうな生徒だったと思う。
 
運悪く私もその目をつけられた生徒の一人だった。例のおっかない先輩応援団員が、私のすぐ目の前につかつかとやってきて吊り上がった目を更に釣り上げ、
 
「こらっ、何だお前の帽子は!」
 
と、私の帽子をひったくるように取り上げ、きょろきょろジロジロ裏表見ながら

「なんでこんな帽子かぶってるんだ!!」
 
一字一句は覚えてないが、そんな風にヒステリックに叫ばれて、私はもう恐怖感で体が凍りついてしまった。その後相手がなんて言ったかとても聞き取れるような状況ではない。ましてや言葉が出るはずもない。ただ、ただじっと身をすくめて無言で時が過ぎるのを待つだけだった。一瞬ひっぱたかれるかとも思ったが、ひっぱ叩かれずに済んだのは不幸中の幸いだった。
 
ところで何で目をつけられたかというと、私の制帽は穴があっちこっち空いていて、ところどころ適当に縫い目がしてあっったり、白線はズタズタに切れていたりと要するにボロボロだったのだ。

とにかくこんな具合だったからC君にはみな同情はしていたのだ。しかし、だからといってC君のかわりに俺がなってやろうなどという自己犠牲に溢れた生徒もいなかった。
 
応援はやっぱり怯えながらやるものではない。できたら楽しくやりたいものだと思うし、またできるのだ。実際、私はそういう応援を大学レベルだけれども見ているが、高校レベルでもやろうと思えば絶対できると思っている。せっかく母校が新しい高校として生まれ変わったんだから応援団もそういうスタイルに変えてみるといい。何事もチャレンジだ。やろうと思えば絶対できる。
 
応援練習というのは抑えるべきところは抑えたら、あとは団員自身のユーモアを交えた話術やパフォーマンスで参加者は自然に盛り上がるもの。その上で団員は参加者を上下の関係で見るのでなく、対等、というより逆に下から目線で「褒めておだてて、やる気を引き出す」ように仕向けて行けばもっともっと盛り上がるはずだ。最強の応援団になることだって不可能ではない。
 
私はあの先輩団員を責めるつもりは全くない。あの人達も何もわからないままそういうポジションに就いて、言われるまま自分なりの使命感で一生懸命やっていただけだろうと思う。一番理想的なことを言うと、学校側と同窓会、応援団、生徒(会)、保護者などを入れた協議会で応援スタイルを話し合うのがいい。そうすればいろんな知恵が出てくるはずである。折角だから新しいこと、不可能なことに挑戦してほしいものだ。
 
新生城南高校の応援団に期待したい。

                仙台城南高校頑張れ

ところで何故私の帽子はぼろぼろだったのか。その話を最後にしたい。
 
私は中学生のころからバンカラ=弊衣破帽に憧れていた。この言葉も古くなってしまったかもしれないが、もしわからない人がいたら、例えば仙台一高を始めとする旧制中学校を前身とする伝統校の応援団員を見ればいい。ただし仙台二高は一高への対抗心からスマートな格好をしているが昔はきっと弊衣破帽だったはずだ。
 
私は県北の栗原市で生まれ育った。中学二年のときから越境入学で仙台の五橋中学に転校したけれども、それはあくまでも学校だけ。小さい時から電子高に入るまでは一番上の兄が通っていた築館高校の生徒が私のいわば高校生のモデルみたいな存在だった。
 
この高校はかなりのバンカラでまさに弊衣破帽を地で行く生徒が多かった。ボロボロの帽子と制服、ズボンからは手拭がぶら下がり、高下駄で通学というのがごく普通で真冬でも下駄を履くのが正統派の築高生。築館は県内でも寒いところで氷点下15度以下になることもある。兄は冬、下駄は履いていなかったと思うがそれ以外はずっとバンカラで通した。しかも家から築館まで12~13kmも自転車で、まだろくに舗装もしていない道路を通学するものだからバンカラになりたくなくても自然にバンカラになってしまうような時代だった。その兄から「帽子はこのようにズタズタにして、そしてお茶に漬けて、それから~」とかなんとかノウハウを聞くともなしに聞いているうちにだんだんと私もそういう気になっていったのだった。
 
あの帽子、あれからどうなったか、それも記憶に無い。
 
終わり
 
次回は野球部を予定しております。