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2014年10月26日日曜日

投稿記事「電子高と私」野球部

5 野球部で三回目の挫折         10月最後の投稿記事です!

電子高に弓道部を

私は野球が大好きで小さいころプロ野球の選手になりたかったくらいだから、中学生になって迷わず野球部に入った。しかし練習があまりきつくて、情けないことに3ヶ月位で辞めてしまった。私にとって人生最初の挫折。

それから高校まで運動というと、2年の時に転校した仙台の中学校で内申書のためだけに入った卓球部の練習と、級友とやった草野球や卓球くらいのもの。この卓球部は野球部に比べたらまるで楽、練習は確か週に一回いけばOKというゆるいルールしかなかったから、放課後は級友と遊んでる方がいいと草野球をやってるほうが多かったと思う。それから民間の卓球場にもよく行った。

今もあるかどうかわからないが、当時、仙台駅前の日の出会館には映画館の他に卓球場があって学生で結構賑わっていた。私も級友とよく遊んだ懐かしい場所である。卓球場では音楽が四六時中流れていてシューベルツの「風」やらブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」、小川知子「夕べの秘密」、ダーツなどが歌ったコミカルな「ケメコの歌」など当時流行った曲を耳にタコができるくらい聴いた覚えがあるから随分足繁く通ったんだと思う。

その中学の卓球部には、勿論熱心な部員はちゃんといて真面目に練習していたことだけは付け加えておきたい。

そんな軟弱な2年間と9ヶ月を送っていたわけだから、体力がついたとはお世辞にも思えないのに高校でまたハードな野球部に入部してしまうとは、今考えると私にはかなり無謀な決断だったと思う。

それでも、あの野球部の「けいじ」さんから声をかけられるまでは結構殊勝なことを私は考えていたのである。

私は中学3年に志望高を決めた時、中学1年の時の体験はもう繰り返したくなかったから、合格したら練習のきつそうなクラブではなく、自分でもやれそうなクラブをと、その高校にあった弓道部に入ろうと決めた。父が弓道をやっていて小さい頃教えてもらったことがあるのも理由の一つである。

そして入学試験も思ったほど難しくはなかったので、まあ、落ちることはないだろうと思い、その時からその高校生になった気分で新しい生活に夢膨らみ心踊りとてもワクワクしていたことを覚えている。

ところが、まさかの撃沈。ここで2度目の挫折。人生、思い通りにならないものだと改めて知らされる。

その後も似たようなことがあって、それ以来私はもう何事も「絶対大丈夫」とは思わないようにしている。が、性格というのはそう簡単に変わるものではないようで、相変わらずおっちょこちょいでドジってばかりいる私である。それでも少しは「進化」したか、前と違って何かをやる時は最悪のケースも想定するクセはついたように思う。

それはともかく、その結果電子高に入学したのだが、ここには弓道部はない。

その高校に落ちた場合のことを全く予期していなかった私は、電子高に入っても弓道部への未練はなかなか消えず、それならいっそのこと弓道部を作ってみようかと考えた。幸いにもその考えに興味を示してくれた級友がいて、確かC君だったと思う。彼を誘って弓道部を作ろうと二人でいろいろ画策したことがある。だが、何が理由だったか忘れたが、うまく行かずその夢は露と消えてしまった。

野球部へ何故か入って「しまった」

それでも何か運動はやりたいと思っていたので、何か物欲しそうな顔でもして歩いていたのだろうか、入学式からしばらく日が経っていたのに体育館の入り口近くでまだ勧誘をやっていた野球部の、のち主将となる電子科の「けいじ」さん(東北学院大の野球部に入ったと聞いた)から声をかけられて「しまった」のである。そして何故か「はい」と言って「しまった」。

この2回の「しまった」「しまった」で私の第三の破滅、いや挫折への路がこの時敷かれて「しまった」

さっきも言ったように中学の野球部を辞めてから軟(やわ)な2年と9ヶ月の生活だったから体力がついたとはとても思えないのに、何故「はい」と言ってしまったのか、自分でもはっきり分からない。多分他に興味のあるクラブがなかったこと、それで他のクラブに入るならまだちょっとは未練のあった野球のほうが、という気持が働いて「夢よもう一度」とつい「魔が差して」しまったのかもしれない。

それで始まった野球部の練習は、やっぱりきつかった。ただ中学の時に苦労したマラソンが電子高野球部では比較的短かい時間で済んだせいか、その分だけは少し長くふんばれたように思う。そして夏休みに入って一週間くらいまで頑張った。しかし、結局は酷暑で体力が続かず辞めるのは時間の問題だった。皆に比べると田舎育ちにのくせに私は本当に体力がないことを、まじまじと思い知らされ情けなかった。

しかし両親に言わせると、体力の問題ではなくて「お前は根性がないから何をやっても三日坊主で終わるのだ」ということになる。

まあ、当たらずとも遠からず。遊びも習い事も新聞配達も何一つ長続きしたためしがなかったら、そう言われても仕方がない。それで、この辺りから私はかなり落ち込むようになっていき、気がついたらもうどうしようもないところまで行ってしまうことになる。

その話は次回にするとして、野球部での4ヶ月間は実際にどんなだったかというと…、

野球部の練習は辛かったけれど

練習は確かに大変だったけれども、不思議とあまり嫌な思い出はない。中学校の野球部は暗い灰色のイメージしかないのだけれど、電子高野球部での思い出は全く逆で、色で表せばオレンジと青空のブルー。それはきっと部の空気、部員同士の人間関係だろうと思う。中学校の野球部は部員が多かった。そして上級生も同級生も電子高野球部のように密ではなくて、何となくバラバラで私は誰かと話したとか、話しかけられたとかという思い出がなく疎外感というか孤立感みたいなものを常に感じていたように思う。

それに比べると電子高野球部は部員の数が少なかったせいもあるだろうし、仙台の開放的な土地柄もあるかもしれない。皆とは結構コミュニケーションがあってお互いが比較的近い存在として意識していたように思う。いつも元気一杯でガッツのあるけいじさんの人柄も大きいと思う。

けいじさんは常に我々に声をかけていた。勿論、ミスをして怒られることのほうが多かったが、「ばかやろう」とか「このやろう」ではなく、激励の意味を込めた叱咤の類で、良いプレイをすればちゃんと褒めてくれた。そういう意味ではけいじさんは下級生に対してもコミュニケーションの取れるとてもいいリーダーだったと思う。

嫌だったことを強いて挙げれば、何でもこのクラブの伝統だそうで連帯責任とかと称して同級生の誰が何をしたのかよく理由がわからないまま、バットを足に挟んで正座さらられたことが一回あった。これは確かに痛かった~。でも、あの恐怖の応援練習よりはいい。何故ならあの種の身体的な痛みはいずれ収まるが、恐怖はトラウマになってずっと後々まで残る場合があるからだ。心理的、精神的にはいいことではない。

同級生ではメガネを掛けた実直そうな荒君、明るくて誠実で真面目な小鹿君、大河原から来てた背の高いちょっといたずらっぽい菅原(孝)君等などがいた。私と同じで途中で辞めた佐藤君(台原中)もいた。小鹿くんは小柄ながら結局キャプテンになったはず。彼はまとめ役にはピッタリの人物だ。あとは名前は忘れたが、小鹿くんよりもずっと小柄で「珍念」なんて渾名がついていた電子科の同級生。私より体力は無さそうだと思っていたのに結局3年までやり通した。ハードな練習も辛い顔一つ見せずよくやっていた顔が忘れられない。温厚な性格だったから、今もきっと皆から慕われていることと思う。もう一人、郡部から来ていた電子科の彼も朴訥ながら人情味のあるいい同級生だった。

こんなこと書いていたら、なんか無性に皆に会いたくなってきたなあ。あっ、そうだ。この談話室で「人探し」やってみるのも悪くはない、と書きながらアイディアが浮かぶ。

上級生では、特に3年生は2年しか違わないのに随分大人びて見えたものだ。下手投げのピッチャーの確か赤坂さんという人はいつもにこにこしていたっけ。2年生もみないい人達だった。けいじさん、赤間さん、鈴木さんなど。ただ練習では草野球レベルの技量しかない私はよく怒られてばかりいたが。

特に、一塁の守備練習ばかりやらされていた私はセカンドの鈴木さん(名前は自信がない)へ送球すると、

「おい、お前、どこへ投げてんだよ、ちゃんと投げろよっ!!」

と何回言われたか。

石田先生は時々練習に顔を出しては熱心に指導していって下さった。「新兵」の1年生はただ聞いて見ているだけだったが、私は先生から直接声をかけられたことが一度だけある。練習中に「投げてみろ」と言われて、守備練習を中断しマウンド横の投球練習場で2年生の、体が大きくて当時すでに4番バッターで正捕手だった先輩(名前が思い出せない)めがけて何十球か投げてみた。私が左利きだったのでちょっと投手にどんなもんかと思ったのだろうが、黙ってみていて、それっきりだった。

合宿は二回経験した。でも覚えているのは寮(今もあるのだろうか)の大部屋で寝たことと夕食に食べた鯖しか記憶が無い。電子高からバス通へ向かって登っていく坂道の左手にある食堂の鯖定食が旨かった。

そして、夏。高校野球宮城県予選をベンチで経験した。公式大会でベンチを経験するなんてはじめての経験だったので、我ながらちょっと興奮した。そして一回戦で負けて、それから程なく私は野球部にサヨナラした。

県予選の時も、辞めた日も日差しがじりじり照りつける暑い日だった。
 
*次回は、「堕落の日々と救世主(仮称)」の予定です。



2014年10月19日日曜日

投稿記事「電子高と私」 応援団

  4 応援団に「ガン」をつけられた私    



入学早々11組で一騒動が持ち上がった。
 

級長に選ばれたC君が「俺がこんなことをしなきゃならないなら、もう級長をやめる」と級長放棄を宣言したのだ。この問題を巡ってクラスはその後、時間外に何度となみなで議論した。しかし、揉めに揉めてなかなか問題は解決しなかった。
 

なにせ古い話だから、事の顛末は正確に覚えてなくて、例えば、級長がどうやって選ばれたとか、またその時担任の小野寺先生はいたのかいなかったのかとか、また問題が最終的に解決したのかしなかったかもわからない。最後の件は私は途中から野球部の練習に入り議論には参加しなかったせいもあるだろう。
 


覚えているのはただ次ののようなことである。

 

級長をやりたくないというC君の気持ちはみな理解していたはずの我がクラスの面々、だが、代わりに級長をやれば今度はその人が「犠牲」になる。だからここは悪いけども貧乏くじを引いたC君に生贄、言葉がちょっとキツ過ぎたか、我慢してやってもらうしかないというのがみなの気持ちだったように思う。だからか誰も代わりに手を挙げる人はいなかった。
 

級長に選ばれると自動的に、つまり有無を言わせず応援団員にさせられた。そしてしぶしぶ応援練習にいったC君、まず先輩応援団員がやる新米応援団員の練習に参加した。それがC君にとってはもう二度とやりたくないというほど大変だったらしい。「こんなこと」というのがその応援練習だった。
 
その応援団員だけの練習が実際どういうものだったかは、今となっては当事者のC君に聞くしかないけれど、クラスの生徒はみな想像がついていた。というのは、ほぼ同時に始まった1年生全員参加の応援練習が腰を抜かすほど凄いものだったからで、一般生徒の練習でこうなら、みなのリーダーにならなければならない団員同士の練習なら更に気合の入ったもの凄い練習だっただろうことは容易に想像はつく。
 
私も野球部の練習が始まる前に何回かこの応援練習に参加したけれど、もう一回でこりごりだったし『こういう練習があることを知ってたら電子高なんか来るんじゃなかった』と後悔したくらいだから、C君の思いはいかばかりだっただろう。
 
その風景とは…、
 
放課後、屋上に集めらられた新米の1年生の周りを、怖そうな先輩応援団員が取り囲む。練習が始まるやいなや、団員が動き出す。中には目が釣り上がってすごい形相になる団員がいた。そしてあっちこっち歩きまわっては、今まで聞いたこともないような大声で、
「こらっ、なにやってんだっ、お前ら!!」
「もっと声を出せっ、この野郎!!」
突如、全く予期しなかった恐ろしい場所へ連れて来られたような気持ちになった。怒号、罵声が飛び交い、1年生はビクビク、おどおどしながら練習する。おそらく高校
へ入るで、こんなふうに人から罵られるように言われた生徒はいなかったので
はないだろうか。
 
はっきり言って、これは恐怖以外の何ものでもない。これじゃあ応援練習というよりシゴキ、といっては悪ければあの帝国陸軍の新兵教育である。まあ、あんまりかわりないか。
 
目をつけられるのは、大体は座り方が悪いとか、やる気の無さそうな生徒だったと思う。
 
運悪く私もその目をつけられた生徒の一人だった。例のおっかない先輩応援団員が、私のすぐ目の前につかつかとやってきて吊り上がった目を更に釣り上げ、
 
「こらっ、何だお前の帽子は!」
 
と、私の帽子をひったくるように取り上げ、きょろきょろジロジロ裏表見ながら

「なんでこんな帽子かぶってるんだ!!」
 
一字一句は覚えてないが、そんな風にヒステリックに叫ばれて、私はもう恐怖感で体が凍りついてしまった。その後相手がなんて言ったかとても聞き取れるような状況ではない。ましてや言葉が出るはずもない。ただ、ただじっと身をすくめて無言で時が過ぎるのを待つだけだった。一瞬ひっぱたかれるかとも思ったが、ひっぱ叩かれずに済んだのは不幸中の幸いだった。
 
ところで何で目をつけられたかというと、私の制帽は穴があっちこっち空いていて、ところどころ適当に縫い目がしてあっったり、白線はズタズタに切れていたりと要するにボロボロだったのだ。

とにかくこんな具合だったからC君にはみな同情はしていたのだ。しかし、だからといってC君のかわりに俺がなってやろうなどという自己犠牲に溢れた生徒もいなかった。
 
応援はやっぱり怯えながらやるものではない。できたら楽しくやりたいものだと思うし、またできるのだ。実際、私はそういう応援を大学レベルだけれども見ているが、高校レベルでもやろうと思えば絶対できると思っている。せっかく母校が新しい高校として生まれ変わったんだから応援団もそういうスタイルに変えてみるといい。何事もチャレンジだ。やろうと思えば絶対できる。
 
応援練習というのは抑えるべきところは抑えたら、あとは団員自身のユーモアを交えた話術やパフォーマンスで参加者は自然に盛り上がるもの。その上で団員は参加者を上下の関係で見るのでなく、対等、というより逆に下から目線で「褒めておだてて、やる気を引き出す」ように仕向けて行けばもっともっと盛り上がるはずだ。最強の応援団になることだって不可能ではない。
 
私はあの先輩団員を責めるつもりは全くない。あの人達も何もわからないままそういうポジションに就いて、言われるまま自分なりの使命感で一生懸命やっていただけだろうと思う。一番理想的なことを言うと、学校側と同窓会、応援団、生徒(会)、保護者などを入れた協議会で応援スタイルを話し合うのがいい。そうすればいろんな知恵が出てくるはずである。折角だから新しいこと、不可能なことに挑戦してほしいものだ。
 
新生城南高校の応援団に期待したい。

                仙台城南高校頑張れ

ところで何故私の帽子はぼろぼろだったのか。その話を最後にしたい。
 
私は中学生のころからバンカラ=弊衣破帽に憧れていた。この言葉も古くなってしまったかもしれないが、もしわからない人がいたら、例えば仙台一高を始めとする旧制中学校を前身とする伝統校の応援団員を見ればいい。ただし仙台二高は一高への対抗心からスマートな格好をしているが昔はきっと弊衣破帽だったはずだ。
 
私は県北の栗原市で生まれ育った。中学二年のときから越境入学で仙台の五橋中学に転校したけれども、それはあくまでも学校だけ。小さい時から電子高に入るまでは一番上の兄が通っていた築館高校の生徒が私のいわば高校生のモデルみたいな存在だった。
 
この高校はかなりのバンカラでまさに弊衣破帽を地で行く生徒が多かった。ボロボロの帽子と制服、ズボンからは手拭がぶら下がり、高下駄で通学というのがごく普通で真冬でも下駄を履くのが正統派の築高生。築館は県内でも寒いところで氷点下15度以下になることもある。兄は冬、下駄は履いていなかったと思うがそれ以外はずっとバンカラで通した。しかも家から築館まで12~13kmも自転車で、まだろくに舗装もしていない道路を通学するものだからバンカラになりたくなくても自然にバンカラになってしまうような時代だった。その兄から「帽子はこのようにズタズタにして、そしてお茶に漬けて、それから~」とかなんとかノウハウを聞くともなしに聞いているうちにだんだんと私もそういう気になっていったのだった。
 
あの帽子、あれからどうなったか、それも記憶に無い。
 
終わり
 
次回は野球部を予定しております。


 


 
 
 

 

2014年10月13日月曜日

投稿記事「電子高と私」44年ぶりのお詫び 


3 44年ぶりのお詫び

学校が始まって2,3か月くらいの時だったと思う。1年生の生徒会リーダー(確か斉藤君という生徒)がある紙を持って11組にやって来た。紙は仙台三高生のアンケート結果だった。

彼はその時、三高と電子高で生徒会の交流があるのだとまず前置きをして、そのアンケートの中身を話していった。その中で一つだけ覚えていることある。「三高ではうるさいクラスが一つもない」と。

小学校、中学校と9年間、クラスがうるさいと思ったことは私の記憶では一度もない。だからか電子高に入ってうるさい授業が多くて少々閉口した。それで段々うんざりし始めていた時だったからか、このアンケートの話が妙に頭に残ったようである。

静かなクラスは蔦先生や新海先生の授業。地学はまあまあだったように思う。あとはどの授業がどれだけうるさかったかと聞かれると実はあまり覚えていない。でも間違いなく、しかもとびきりうるさかった授業があった。それだけははっきり覚えている

それは音楽の授業だった

先生は女性。確か石巻の出身と記憶している。30前後のいかにも真面目そうで綺麗な人だった。ただ、彼女にとっての不幸は選んだ場所が悪かったことだろう。それとも誰かに引っ張られてしぶしぶ電子高に赴任してきたのかもしれないが。

普段でもうるさい1年11組この時はさらにうるさくなる。そして授業にならないこともしばしば起きた。その度に先生は立ち往生し生徒に注意する。だが、声は細くよく聞こえない。だから生徒は馬耳東風。その繰り返しだった。しまいにはこの先生、ほんとうに疲労困憊しもうこれ以上耐えられないという顔で呆然と立ち尽くしてしまったことがある。

あの時、先生は間違いなく泣いていた。

あの痛々しい姿を見せた先生に何もできなかった私達今更ながら自分が情けない。これを書きながら何十年も前の話だというのに悔しさが込み上げてくる。先生は私の何倍も悔しかっただろうに。

確かそれが嫌になってその後電子高を辞めたとか辞めないとか、そんな話を聞いたことがある。本当に我々は申し訳ないことをしてしまった。

もっともこの授業は、時々レコードを聞かせるもののクラシック音楽ばかり。それ以外は先生が話し、生徒はただ聞くだけの一方通行、まあ、この辺りは他の授業もそうなのだけれども。その上受験にも関係ない、となるとただでさえうるさい生徒は余計だらけてくるものである。

しかし、教師たるものー尤も私は素人だから詳しくは知らないがーそういう生徒もいることを想定し話し方に抑揚や強弱をつけたり、あるいは生徒を授業に引きこむための工夫、例えば質問し考えさせ調べさせるとか、いろんな教材、例えばクラシック以外の曲も聴かせるとか、楽器を使った練習させそのあとプレゼンテーションさせるとか教え方にいろいろ工夫を取り入れることを大学で学んでくるものだと思う。宮城教育大学なら当然そういうことをするだろう。が、この先生東北大教育学部を出た人だった。ここは教員養成のための学部ではないから、あまりそういうところまでは深く訓練してこなかったのかもしれない。それにあの先生は育ちが良さそうで、「悪ガキ」が集まるような世界とは無縁のまま電子高に赴任して来てしまったのかもしれない。

しかし、一人の人間、しかもか弱き女性が目の前で泣いているというのに見て見ぬふりをしていいわけがない。16歳ともなれば昔なら立派な大人。ここで「うるさい!静かにしろ!」と言って静かにさせるのが武士の情け、惻隠の情というものではないか。

でも、私はしなかった。ということは、案外私もうるさい生徒の一人だったのでは…、

いやそれは絶対ありえない

いや…なかった…はずだ

いや……、なかった……と思う

『おい、おい、だんだん怪しくなってきたではないか一体どっちなんだ

でもそんなことはどうでもよい。自分一人おとなしかったとしても、結果的に皆んなで先生に迷惑をかけてしまっことに変わりはない。兎に角、今からでもいいこの場を借りて先生にお詫びすることだ。 過ちては則ちなんとか、というではないか。

と、この場を借りて1年11組のクラス全員を代表してお詫びすることにした

「先生、本当にすみませんでした。ごめんなさい!!」

先生、いつまでもお元気で。




*次回予告:1年目の「先生の思い出」はこれで終わり。「1年目の思い出日記」は、これから「応援団」「野球部」へと入っていく予定です。…















2014年10月10日金曜日

投稿記事「電子高と私」地学と地理 


2 地学と地理、似て非なるお二人

地学と地理の先生。両方ともよく通る声の持ち主という点では似ていたが、動作、振る舞いは全く正反対だった。

地学の先生はするっと背が高く黒縁のメガネをかけていた。まだ20代後半か30代前半だっただろうか。背は高くスタイリッシュ、でも結構がっちりしていて声にも張りがあり、コーラスにはもってこいのバリトンの持ち主だった。また黒板に何か書きながら、狭い教壇を右に左によく動きまわる。その動き方というか、歩き方、とりわけ向きを変える時の仕草がちょっと格好良くて、ファッションショーのモデルかダンスでもやっていたのでは、と思わせるような粋な身のこなしかたが印象的だった。

そんなちょっと都会的でおしゃれな先生ではあったが、たまに教科書を離れ生徒に話しかける時は仙台便丸出しになる。パリのシャンゼリーゼから急に仙台駅前のあの人でごった返すアメ横に急に引き戻されたようでほっとするひと時だ。といって特に人を笑わせるようなことを言うわけではなかったが、その仙台弁に何となく親しみを感じさせる一面があったように思う。授業がうるさい時も決して体育会的に

「こらあっ、うるさい、静かにしろ」ではなく

「ねえ、ねえ、ちょっと静かにしてくれるぅ」

とあたかも年端もいかない子どもたちを諭すような口調で、しかも仙台弁で話すから強面とはとても言い難く、言われる生徒の方も何となく間延びをしてしまうのかあまり効果がない。

ある時、どういうきっかけだったか覚えてないが、授業中に先生がフランス語の発音を披露してくれた。ネイティブの発音ではなかったものの、目の前で始めて耳にするフランズ語。私はその時、ゾクっと体が震えるような興奮を覚えたことを今でもはっきり覚えている。英語とはまるで違う音の響きがあまりにもエキゾティックで、その瞬間だけだったけれど、まるで見知らぬ世界に引きこまれてしまったような強烈な体験だった

よく喩え話に出てくるけれど、「ビジネスをするなら英語、愛を囁くならフランス語」と誰が言い出したかわからないが、両言語の特徴を上手に捉えているなあと今でも感心する。またこういうのもある。「嫁さんを持つなら日本人、でも恋人を持つならフランス人」まあ、これは国民性の喩え話で言語とは直接関係ないかも分からないが、フランス語が「愛を囁く」にはもってこいの言葉であることと無縁ではないだろう。ことほどさように、あの甘くとろっと耳に響く心地いい音感はまさに芸術作品といってもいい。

ちなみにドイツ語はというと、あのヒットラーを思い浮かべればいい。喧嘩するか、あるいは家畜の豚を追い払う時にいい言語だそうだ。ドイツ人とソーセージは切っても切れない関係にあるから「豚」を持ちだしたのかもしれないが、これもなかなか言いい得て妙である。

話がそれてしまった。兎に角この先生ー名前がどうしても出てこないーの授業を一年間受けていて何一つ覚えてないけれど、雑談で出たこのフランス語のお陰で私が持っていた異文化への憧れと興味がいやが上にも掻き立てられたように思う。私が初めての海外旅行にタヒチを選んだのもその時の強烈な体験が尾を引いていたからかもしれない。そして、それが元で今私は海外に住んでいる。人生というのはどこでどう糸が繋がっているかわからないもののようである。

一般に、生徒は味気ない教科書の講義よりも雑談や何気ないとところで発せられる教師の一言とても興味を持つことがある。そしてそれが後々まで記憶に残ることもある。それがずうっと後になって知らず知らずの間に人生に大きな影響を与えていた、ということもあるだろう。電子高校時代、もう一人とても面白いことを話してくれた先生がいた。その話はまた後でお話したい

 
地理は蔦先生。この先生も声は低く張りがあった。しかし地学の先生を動、とすると蔦先生は明らかに静。教壇の上をあまり動きまわらず、雑談も皆無。そして声を腹の底から絞りすようにゆっくり大きな声で話す。背はあまり高くはないが横幅がありがっちりしているからとても貫禄がある。地学の先生がダンスクラブ出身とすると、蔦先生は剣道部が柔道部出身。

その上、顔も強面視線鋭くきっと人を見据えて話すから、これではうるさい生徒も自然に萎縮してしまうというものである。

あの風貌は一介の教師では収まらない人物、その時から感じていた。ゆくゆくは校長か公立の教師なら教育長になるような器。いやそれでもまだ足りない。いっそのこともっと時代を遡って鎧兜の似合うどこかの戦国武将が相応しい。