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2014年11月30日日曜日

私の日記から N03 「ある同窓生からのメッセージ」   

今回は、談話室へある同窓生からメッセージが入りましたので、それをご紹介します。

私が電子高を強く意識した時  11月12日   相澤 1977年電子高卒

こんにちはケアンズ素晴らしいですね~ケアンズ生活は長いんですか~仙台も今日の最低が0度で冬の曲がり角が一日一日近づいて来てる感じがします。

私が母校電子高をまた意識した経緯が有ります

530日電力ホールで足かけ10年仙台を拠点に活動をしていたアコースティク・デイオ・イケメンズの一人横山君が工大高出身で応援して来た次第です彼らを応援して来た三年間は電子高を強く意識してました。イケメンズの話しになると長くなりますので、今度帰国なさった時続きお話しします

城南高も高校サッカー選手権大会県大会でベスト4入りしました~TVで学校案内をガンガン放送しております。菊池先輩も健康に留意して仕事頑張って下さい。

追伸電子高初の国会議員自民党の土井亨とは同期です。


*相澤様のメッセージへのコメント
心温まるメッセージどうも大変有り難うございます。電子高にもいろんな分野で活躍し
てる人がいるんですね。いつも思うんですが、特に音楽には国境がありません。人の心を捉え、感動させることができるなんて素晴らしいですね。土井氏にも主義、主張はともかく「電子高同窓生もなかなかやるなあ」と言われるような政治家になれるよう頑張って欲しいですね。ところで横山氏はまだ活躍されてるのでしょうか。
 
私はこの同窓生談話室を通し、同窓生の歩んできた歩みを電子高並びに工大高、そして昭和の記録として残したいと考えてやっているわけですが、もう一つ、将来的には二つ目のゴールとして、様々な活動や同窓生のネットワークを活かしながら同窓生や城南高の後輩の応援、サポートをしていきたいと考えております。
 
そして皆様が同窓生の枠を超え、「良き家庭人」として「良き住民」として「良き職業人」としてより一層活躍していって頂きたいと考えております。
 
つまり「電子高・工大高同窓生談話室」を超える「電子高・工大高同窓生談話室」にしていきたい、これが私の願いです。
 
今後とも皆様からのご協力、宜しくお願い申し上げます。

2014年11月26日水曜日

投稿記事「電子高と私」2-2 汽車通学が始まった

 汽車通学が始まった   いよいよ師走に入ります。最後まで頑張りましょう!   
私が汽車通学を始めたのが1970年(昭和40年)で大阪万博があった年である。私が利用した汽車はもう電化されていたが、車両は蒸気機関車時代のままのもので全て対面式。車両は今に比べたら長く、短い汽車でも6両編成くらいはあったと思う。私の利用した列車は朝の一番混む時間帯に走るのでかなり長かった。10両以上はあっただろう。それでも瀬峰駅、小牛田駅でかなり乗ってきて鹿島台駅を過ぎると空席がめっきり少なくなる。塩釜駅を過ぎるとほぼ満席になり山王駅、岩切駅から乗る人は座るのはまず無理だった。
 

10両編成で前沢-折居を走る 画像提供「80s 岩手県のバス“その頃”」http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/

この2年前に東北本線が全面電化されたが、陸羽東線ではまだ電化されていなかったからー今でそうかもしれないがー小牛田駅では蒸気機関車を時折見かけた。冬になるとラッセル車がよく停まっていた。
 
当時この駅にはまだ駅弁売りがいて、小牛田駅の名物は小牛田饅頭。この饅頭を食べたことのない人は私の町ではまずいなかっただろう。今でも駅の売店で売っている。また3年生の時、帰りに空腹が我慢できず駅弁を買って食べたことが一度だけある。それから、ここの駅の名物は饅頭だけではない。アイスクリームが美味しく今でもあの味が忘れられない。スーパーやコンビニで売っている高いアイスクリームよりとてもミルキーで自然な味がする。もっとも、今小牛田で同じアイスクリームを売ってるかどうかわからない。

車両の中
「80s 岩手県のバス“その頃”」から
 
さて、私が乗り降りした石越駅というのは宮城県の北のはずれにあって岩手県境から何キロと離れていない。石越駅の一つ先の駅は油島というが、ここはもう岩手県の花泉町になる。この町の高校や一関市の高校へ、当時、今もそうだと思うが石越駅から沢山通学していて、駅前の貸し自転車屋はいつも一杯だった。

私が朝利用した列車は石越駅を6時11分に出た。それに間に合うように5時半前には起きて、急いで身支度し顔を洗って朝ごはんを食べる。そして5時50分には自転車で家を出た。石越まで2kmの道のりは、幸いにして平坦で舗装道路だし10分とかからない。

石越駅
http://jp.worldmapz.com/photo/379239_ru.htm
貸し自転車屋に自転車をおいて6時過ぎに駅に着くといつもの人間が集まってくる。仙台まで2時間かかるから通勤する人は多分いなかったと思うが、通学する人は10~15人位はいただろう。でもほとんどは学院などの大学生だから毎日6時11分の汽車で行くわけではない。

毎日顔を合わせるのは予備校生2人と高校生2人の計4人だけ。この4人は今でもよく覚えている。予備校生は私の同級生のお兄さんで地元の高校を出た人。2浪目だったが翌年東北大に合格した。もう一人は築館高校卒の人でちょっと風変わりな人だった。高校生は私と仙台電波高の3年生。
当時の仙台駅

汽車は石越駅を出て仙台に着くのが8時過ぎ(正確な時間は忘れた)。この汽車を逃すと次の汽車では学校は間に合わないが、2年間汽車が遅れたことが一度もなかった。これは実に幸運だったとしかいいようがない。

仙台に着くと急いで駅を出て仙台ホテル前のバス停からバスに乗って8時半過ぎに学校へ着く。

船岡先生と副担任梶野先生
電子高校2年目のクラスは9組。本館の2階だったと思うが端っこで階段の側。部屋は広かったような気がする。担任は物理の船岡先生。新潟出身で大学院を出たばかりという感じのいかにも真面目そうな先生。このクラスには副担任がいて公立高校教師を引退してきたと思われるベテランの梶野先生。担当は数学。関西弁で話す先生だった。この先生が実はなかなかの人だった。

(つづく)
 

 

 
 









2014年11月19日水曜日

投稿記事「電子高と私」2-1 汽車通学

いよいよ、2年生の思い出に入ります。

汽車と私の馴れ初め
そんなわけで、私は2年の時から汽車通学を始めることになった。それにしても、三日坊主で大の怠け者である私は、それまでのだらだらした生活から180度違う規則正しい生活を送ることが果たしてできたのだろうか。
 
今までと違い朝5時半に起きなければならないし、仙台まで片道2時間椅子に座り続けなければならない。それから仙台に着いたらバスにも乗らなければいけない。今までは家から学校まで1分弱で済んだ通学時間が、今度は3時間近くかかることになる。生活サイクルをそんなに大きく変えることに全く不安はなかったのかと尋ねられそうだが、実のところ全くなかった。むしろワクワクしていたくらいである

実は私は汽車が大好きで、子供の頃、一番最初に夢見た職業は汽車の運転手だった。お金を払うどころか、逆にお金を貰って旅ができるなんてこれほどいい仕事はない、と子供心に思っていた。それはNHKTV番組「みんなの歌」から流れていた「線路は続くよどこまでも」に多分に影響された面もあったように思う。なんでもこの番組は昭和36年4月に始まったそうで、つまりは私が小学校2年生になった時。我が家にTVが入ったのはそのちょっと前だったからほぼ同時期だったといっていい。
 
それで思い出したことがあるので、昭和が遠くなりゆく今、当時を知らない若い人のためにと、ちょっと回り道をしてみよう。

我が家にTVが入った頃、家はまだ茅葺き屋根で囲炉裏もあった。風呂と便所は母屋からはちょっと離れていた。風呂はまだいいとしても便所までちょっと歩かなければいけなかったということは、今考えてみると随分と不便な生活をしていたんだなあとあらためて思う。

ところで便所と言いうとなんとなく汚いイメージになってしまうのでトイレと言いたいところだが、水洗では勿論ないし、あれはまぎれもなく便所としか言いようない。

寒い冬、私の住んでた町は築館よりは幾らか暖かい場所だが、それでも当時だったら朝晩の寒い時で氷点下10度以下になることはあっただろう。そんな時、掘っ立て小屋よりも粗末な隙間だらけの便所で用を足していたのだから、今これを書きながらとても信じられない気持ちになってしまった。よくそれで不満も言わず生活していたものだ。

でも当時はテレビがあるわけでなし、他所の生活がどんなだったかもわからない。それが当たり前の生活だと思って暮らしていたわけである。

食生活も全く質素そのもので、夜は囲炉裏で雑炊やすいとん(家では「つめり」と呼んでいたが、これは宮城県北から旧伊達藩の水沢・江刺当たりまでの呼び方だったらしい)をよく食べた記憶がある。小学校低学年の時、弁当に卵焼きが入っているとそれはご馳走の部類だった。

田舎の子供の憧れ
食事時は皆でラジヲをよく聞いていた。その頃ラジヲから流れていた歌ですぐ思い出すのは島倉千代子の「からたち日記」と、歌手は覚えてないが(調べたら倍賞千恵子と書いているが)「母さんの歌」である。「母さんの歌」はよく流れていたので、今でも歌詞の一番目はすらすら出てくる。それで歌詞の2番目以下まで拾ってみたら、
        

       1 母さんは夜なべをして手袋編んでくれた
         木枯らし吹いちゃ寒かろうとせっせと編んだだよ
         故郷の便りは届く
         囲炉裏のにおいがした

       2 (略)
         (略)
         故郷の冬は寂しい
         せめてラジヲを聞かせたい

       3、4 以下略


2番目は「せめてラジヲを聞かせたい」で終わっている。私の母が手袋を編んだことがあったかどうか忘れたが、それ以外は私の家と変わらない風景だったのでちょっと驚いてしまった。でも考えてみれば、当時どの家も大なり小なり似たようなものだった。

そんな私の田舎にもその頃、TVが急に普及し始めた。近所では最初に床屋にTVが出現した。珍しくてそれ見たさに、時々出かけて行って窓越しにTVを見た。しかし、プロレスなどの人気番組がある時は、沢山人が集まってくるので私のような子供は背が低いから混んでて見られなくなる。そんな時は道路隔てて反対側にある神社の塀や木に登ったりして見ていたものである。

そしてやっと我が家にTVが入ったのが小学校1年生の時。そしてほどなく始まったのが先ほどの「みんなの歌」だった。私の大好きな歌番組だったから毎回TVを食い入るように見ていた。


この歌番組では「線路は続くよどこまでも」を始めとして「おお牧場は緑」や「森へ行きましょう」とか「大波を超えて」とか綺麗な景色が、東京放送児童合唱団や西六郷少年合唱団のコーラスとともに目の前に次から次へと飛び込んでくる。それらはラジオでは絶対に味わえなかった映像の世界だった。それまで遠くといえば母親の実家がある一関くらいしか連れてってもらったことがなかった私には、TVに映る風景は今まで見たこもない綺麗な景色ばかりで、全てがきらきら眩しいほどに輝いていた。「線路は続くよどこまでも」を聴きながら、私も列車でそんな土地へ行ってみたい、という気持ちが芽生えるのは当時の田舎の子供達だったらごく自然のことだったのかもしれない。
 
  
*次回は「汽車通学が始まった」(仮称)をお送りします。
 
*いろり画像:http://irori.yuyado.net/vacancy/planlist.html
*線路画像;http://8quest.net/weblog/photolog/2142


2014年11月4日火曜日

私の日記から ケアンズ紹介 11月01日


私の日記から 「ケアンズというところ」  11月最初の日記です!
  
私が住んでいるケアンズについて、この日記を借りて時々お話したいと思います。

ケアンズはオーストラリアの北部東海岸に位置する人口約17万人の観光地。緯度で言うとフィリピンのマニラくらいの位置に相当します。雨季は12月末から3月一杯。サイクロン(台風)は数年に一回程度やってきます。乾季は6月から11月頃まで。

シドニーから飛行機で約3時間、ニューギニアの首都から2時間ここは世界一のサンゴ礁で知られたグレートバリアリーフの玄関口で、日本からは直行便が成田と関空から毎日出ています。飛行時間は約7時間半。日本との時差は1時間。

産業は観光の他にサトウキビ、近郊ではコーヒー、マンゴー、バナナなどの熱帯系の果樹栽培が盛んです。

そこで今日は、ケアンズの街と今季節を迎えているマンゴーの写真をお届けします


カジノから向こう岸の眺め

手前HILTON HOTEL


いずれも家の近くのマンゴー
フィッツロイ島のツアーパンフから
 

投稿記事「電子高と私」野球部を辞めてから

6 野球部を辞めては見たものの 11月最初の投稿。日記もどうぞ!                   
   
怠け者の成れの果て
野球部を辞めて、暫くは厳しい練習から解放されほっとした気分に浸っていた。しかし、ここでもいろいろ予期しない問題が出てきてしまう。

授業終わると部活がないから家に帰るが、大の勉強嫌いだから家で勉強するわけがない。それに宿題もない、補習もない、また模試のようなものもあるわけではなかったから私のような怠け者は勉強しなければという気持ちがサラサラ湧いてこない。級友で予備校に通ってる人もいたというのに、私はまるで関心がなかった

それなら夢中になれる趣味のようなもがあるか、というとあるわけでもない。じゃあ、家に帰る途中、中学校時代のように草野球や卓球なんかできるようなところはあるかというと、それもない

私が住んでいた家は、実は電子高と目と鼻の先にあって校門から歩いて1分とかからない。ご存知のように、あの当たりには道草できるようなところはないから学校が終われば真っ直ぐ帰るしかない。そうなると学校が3時に終わったら翌日受業が始まる朝の9時近くまで約18時間を家で過ごすことになる。

それにもう一つ困ったことは、家に帰っても誰も居ないこと。話し相手の一人もいれば気が紛れるが、そういう人もいない家だった。

前にも話したとおり、実家は栗原にあるのだけれども、父が仙台で会社勤めしていたし、二つ上の兄が仙台の高校に、私も仙台の中学に通いだしたから、それならと三人で住めるよう電子高に隣接していた会社の土地を買ってちっぽけな家を建てていた。

母親はたまに栗原から出て来るが、炊事洗濯をしたらまた帰っていく。向こうには祖母がいるし、小さいながらも店もやっていたから長居はできない。父は仕事で、兄は高校の部活で遅く帰ってくる。だから私が学校から家に帰ってくると誰もいない日がほとんどで、ガランとした家に一人ぼっちでいた。

とにかく野球部をやめたら、これだけ「ない」「ない」づくしの生活だったのである。これだけ何もないと退屈なんてものではない。

「平凡パンチ」と「全員集合」で過ごした私の青春??
そんな時だった、あの雑貨屋で平凡パンチやプレーボーイを立ち読みしだしたのは。「苦肉の策」といったら笑われるけれども、家でぶらぶらするよりは少しはマシと家にはまっすぐ帰らず、わざわざ坂道を登りバス通まで出る。あのへんの店をぶらぶらし、雑誌を立ち読みしては違う坂道を降りてきて家に帰る、ということを繰り返すようになった。

夕食後はTV三昧。思い出すのは土曜日夜のドリフの「8時だよ全員集合」(私が電子高に入学した1969年の10月から始まった)、それから何曜日だったかコント55号のコントもかかさず観ていては笑い転げていたのだが、そんな私を父親はどんな気持ちで見ていただろう。

まことにもって情けない話だが、これが私の高校1年の時のありのままの姿だった。貴重な青春の一時期を無為無策、無益無駄に過ごしてしまった。勿論、そのつけ、代償は今に至るまで続いている。

公立高校に落ちた時、実は幾つかの選択肢はあったが、私は迷わず電子高に決めた。というのは受験に失敗した身で市内に出ることにはためらいがあって、市内の他の私立に行く気はなかった。そうなると電子高しかない。しかも、始業時間ギリギリまで寝てられるなんてこれ以上言うことはない。勿論、電子高を受けた時はそんなことまで考えていたわけではないが、実際に入学してからこういうことが起きるとは誰が予想しただろう。

まあ、これは自業自得、自分で自分の首を絞めるようなことをしてしまったわけである。

小倉先生の一言
このように毎日ぶらぶら、だらだらしていたから、成績は当然のごとく急降下。2学期目ですでに成績はがくんと下がり、3学期の期末試験の成績は、怠け者の私もさすがに「やばい」と気がつくレベルまでに落ちていた。普段あまり学校のことに口出ししない父親もさじを投げたのか

「大学は入れるところへ入れればいい」という始末。

また3学期のある日だったと思うが、野球部顧問の小倉先生と校門のところでバッタリ遭遇したことがある。その際、先生はたった一言、

「おい、どうだ、勉強の方は。野球部辞めて成績落ちたべ」

と、あたかも私の成績を知っているかのごとく喋ったので正直いってギクッとした。しかし実際はその通りだっただけに「えっ、あ、まあ…」というだけで精一杯。

それにしても先生は何故、私の成績を知っていたんだろう。それとも、口からでまかせで言った可能性もある。ただ、この言葉を私流に言い直せば「野球部を辞めたってどうせろくなことはないんだよ」ということ。そう考えたら、とても惨めで悔しくてそれからずうっと大学に合格するまで頭から離れなかった。その時私は、

『ようし、見ていろ、俺は先生が考えるような人間じゃない!!』

と心の中で叫んでいたような気がする。

今にして思うのだけれども、小倉先生のこの言葉で私はだらだらした生活にいい加減見切りをつけようという気持ちが芽生えたのではないかと思っている。

しかし、どうしたらこういう状況を打開できるだろう。高校生活も、もう一年が過ぎようとしている。受験までもう2年もない。高校受験で失敗したから大学受験で見返してやるぞと誓って電子高に来たのに、このままでは俺はまた大学受験でも失敗することになる。

そこで藁をもすがる気持ちで早速、受験雑誌を買ってきて今の怠惰な生活サイクルを打ち破る方法はないものかと読みあさリ始めた。

そして、旺文社の螢雪時代に出ていたある受験体験記に釘付けになった。

『これっだ!』と叫んだかどうかわからないが、ピ~ンときた。

怠け者は汽車通学に限る
それは片道2時間の汽車通学をしていた磐城高校生が東大に現役で合格したという体験記。汽車通学での時間がいい勉強時間になったという話だった。

怠け者の私にはこれはピッタリの勉強方法だ、というよりもこれに勝る勉強方法はないと直感した。何故なら勉強嫌いの私は机に向かっても長続きせず、すぐレコードをかけたり、雑誌に手を出したり、TVを観たり、腹が減ったといっては台所に行ったり、さらには爪があまり伸びてもいないのに爪を切ったりと全く落ち着きがなく、結局は勉強はほとんど手につかないまま終わってしまうのが常だった。

しかし、汽車ならTVやラジヲがあるわけで無し、レコードプレーヤも無い、台所があるわけでもない。立ち読みする本屋もない。ナイナイづくしだから考えてみればこれほど勉強に適した環境はない。椅子に座ってとにかく本を開けばいい。そしたら2時間は席を立つ場所がないから黙ってでも勉強に集中できる。そしてもう一つ、汽車は石越~小牛田間はがらがらに近いから大きな声を出してもあまり迷惑にならない。これは語学系の英語、古文、漢文の勉強にもいい。

ちょうど実家の近くの国鉄石越駅から仙台駅までほぼ片道2時間。往復で4時間ある。調べてみると、朝一番の汽車で行くと仙台ホテルの前のバス停からすぐ乗って始業時間には十分間に合う、ということが分った。それで2年生から汽車通学することにして、それまでのだらけた生活から、自分を程々に縛り足かせを履かせた規則正しい生活を送ることになった。

その詳しい汽車通学は、次回以降お話しするが、結果的には成功だった。これも、小倉先生のあの一言で感じた「なにくそっ」という悔しさが常にバネになっていたからではないかと改めて感じている。

この紙面をお借りして小倉先生に感謝の気持ちをお伝えしたい。


*余談になるが、この電子高校舎の建設を請け負ったのが父の勤めていた土建会社である。もっとも比較的小さな会社だったから、鹿島や大成のようなところとJV(共同事業)でやったと聞いたような気もするが、そのことと会社の土地が電子高の側にあったことに何の関係があるのかはもうわからない。しかし、そういう事情があったから、父はこの学校の内側をいろいろ知っていたようで、私がこの学校に行くことになった時も「この学校は郵政互助会という郵政省職員の福利厚生団体が運営している。だから資金的にはとてもしっかりしているぞ」とよく私に話していたものである。要するに「この学校は潰れることはないので安心しろ」と言いたかったらしい。

しかし15歳の私は、ただ「ふん、ふん」と聞いているだけだった。

*次回から2年生の思い出に入ります。