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2014年11月19日水曜日

投稿記事「電子高と私」2-1 汽車通学

いよいよ、2年生の思い出に入ります。

汽車と私の馴れ初め
そんなわけで、私は2年の時から汽車通学を始めることになった。それにしても、三日坊主で大の怠け者である私は、それまでのだらだらした生活から180度違う規則正しい生活を送ることが果たしてできたのだろうか。
 
今までと違い朝5時半に起きなければならないし、仙台まで片道2時間椅子に座り続けなければならない。それから仙台に着いたらバスにも乗らなければいけない。今までは家から学校まで1分弱で済んだ通学時間が、今度は3時間近くかかることになる。生活サイクルをそんなに大きく変えることに全く不安はなかったのかと尋ねられそうだが、実のところ全くなかった。むしろワクワクしていたくらいである

実は私は汽車が大好きで、子供の頃、一番最初に夢見た職業は汽車の運転手だった。お金を払うどころか、逆にお金を貰って旅ができるなんてこれほどいい仕事はない、と子供心に思っていた。それはNHKTV番組「みんなの歌」から流れていた「線路は続くよどこまでも」に多分に影響された面もあったように思う。なんでもこの番組は昭和36年4月に始まったそうで、つまりは私が小学校2年生になった時。我が家にTVが入ったのはそのちょっと前だったからほぼ同時期だったといっていい。
 
それで思い出したことがあるので、昭和が遠くなりゆく今、当時を知らない若い人のためにと、ちょっと回り道をしてみよう。

我が家にTVが入った頃、家はまだ茅葺き屋根で囲炉裏もあった。風呂と便所は母屋からはちょっと離れていた。風呂はまだいいとしても便所までちょっと歩かなければいけなかったということは、今考えてみると随分と不便な生活をしていたんだなあとあらためて思う。

ところで便所と言いうとなんとなく汚いイメージになってしまうのでトイレと言いたいところだが、水洗では勿論ないし、あれはまぎれもなく便所としか言いようない。

寒い冬、私の住んでた町は築館よりは幾らか暖かい場所だが、それでも当時だったら朝晩の寒い時で氷点下10度以下になることはあっただろう。そんな時、掘っ立て小屋よりも粗末な隙間だらけの便所で用を足していたのだから、今これを書きながらとても信じられない気持ちになってしまった。よくそれで不満も言わず生活していたものだ。

でも当時はテレビがあるわけでなし、他所の生活がどんなだったかもわからない。それが当たり前の生活だと思って暮らしていたわけである。

食生活も全く質素そのもので、夜は囲炉裏で雑炊やすいとん(家では「つめり」と呼んでいたが、これは宮城県北から旧伊達藩の水沢・江刺当たりまでの呼び方だったらしい)をよく食べた記憶がある。小学校低学年の時、弁当に卵焼きが入っているとそれはご馳走の部類だった。

田舎の子供の憧れ
食事時は皆でラジヲをよく聞いていた。その頃ラジヲから流れていた歌ですぐ思い出すのは島倉千代子の「からたち日記」と、歌手は覚えてないが(調べたら倍賞千恵子と書いているが)「母さんの歌」である。「母さんの歌」はよく流れていたので、今でも歌詞の一番目はすらすら出てくる。それで歌詞の2番目以下まで拾ってみたら、
        

       1 母さんは夜なべをして手袋編んでくれた
         木枯らし吹いちゃ寒かろうとせっせと編んだだよ
         故郷の便りは届く
         囲炉裏のにおいがした

       2 (略)
         (略)
         故郷の冬は寂しい
         せめてラジヲを聞かせたい

       3、4 以下略


2番目は「せめてラジヲを聞かせたい」で終わっている。私の母が手袋を編んだことがあったかどうか忘れたが、それ以外は私の家と変わらない風景だったのでちょっと驚いてしまった。でも考えてみれば、当時どの家も大なり小なり似たようなものだった。

そんな私の田舎にもその頃、TVが急に普及し始めた。近所では最初に床屋にTVが出現した。珍しくてそれ見たさに、時々出かけて行って窓越しにTVを見た。しかし、プロレスなどの人気番組がある時は、沢山人が集まってくるので私のような子供は背が低いから混んでて見られなくなる。そんな時は道路隔てて反対側にある神社の塀や木に登ったりして見ていたものである。

そしてやっと我が家にTVが入ったのが小学校1年生の時。そしてほどなく始まったのが先ほどの「みんなの歌」だった。私の大好きな歌番組だったから毎回TVを食い入るように見ていた。


この歌番組では「線路は続くよどこまでも」を始めとして「おお牧場は緑」や「森へ行きましょう」とか「大波を超えて」とか綺麗な景色が、東京放送児童合唱団や西六郷少年合唱団のコーラスとともに目の前に次から次へと飛び込んでくる。それらはラジオでは絶対に味わえなかった映像の世界だった。それまで遠くといえば母親の実家がある一関くらいしか連れてってもらったことがなかった私には、TVに映る風景は今まで見たこもない綺麗な景色ばかりで、全てがきらきら眩しいほどに輝いていた。「線路は続くよどこまでも」を聴きながら、私も列車でそんな土地へ行ってみたい、という気持ちが芽生えるのは当時の田舎の子供達だったらごく自然のことだったのかもしれない。
 
  
*次回は「汽車通学が始まった」(仮称)をお送りします。
 
*いろり画像:http://irori.yuyado.net/vacancy/planlist.html
*線路画像;http://8quest.net/weblog/photolog/2142


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