怠け者の成れの果て
野球部を辞めて、暫くは厳しい練習から解放されほっとした気分に浸っていた。しかし、ここでもいろいろ予期しない問題が出てきてしまう。
授業終わると部活がないから家に帰るが、大の勉強嫌いだから家で勉強するわけがない。それに宿題もない、補習もない、また模試のようなものもあるわけではなかったから私のような怠け者は勉強しなければという気持ちがサラサラ湧いてこない。級友で予備校に通ってる人もいたというのに、私はまるで関心がなかった。
それなら夢中になれる趣味のようなもがあるか、というとあるわけでもない。じゃあ、家に帰る途中、中学校時代のように草野球や卓球なんかできるようなところはあるかというと、それもない。
私が住んでいた家は、実は電子高と目と鼻の先にあって校門から歩いて1分とかからない。ご存知のように、あの当たりには道草できるようなところはないから学校が終われば真っ直ぐ帰るしかない。そうなると学校が3時に終わったら翌日受業が始まる朝の9時近くまで約18時間を家で過ごすことになる。
それにもう一つ困ったことは、家に帰っても誰も居ないこと。話し相手の一人もいれば気が紛れるが、そういう人もいない家だった。
前にも話したとおり、実家は栗原にあるのだけれども、父が仙台で会社勤めしていたし、二つ上の兄が仙台の高校に、私も仙台の中学に通いだしたから、それならと三人で住めるよう電子高に隣接していた会社の土地を買ってちっぽけな家を建てていた。
母親はたまに栗原から出て来るが、炊事洗濯をしたらまた帰っていく。向こうには祖母がいるし、小さいながらも店もやっていたから長居はできない。父は仕事で、兄は高校の部活で遅く帰ってくる。だから私が学校から家に帰ってくると誰もいない日がほとんどで、ガランとした家に一人ぼっちでいた。
とにかく野球部をやめたら、これだけ「ない」「ない」づくしの生活だったのである。これだけ何もないと退屈なんてものではない。
「平凡パンチ」と「全員集合」で過ごした私の青春??
そんな時だった、あの雑貨屋で平凡パンチやプレーボーイを立ち読みしだしたのは。「苦肉の策」といったら笑われるけれども、家でぶらぶらするよりは少しはマシと家にはまっすぐ帰らず、わざわざ坂道を登りバス通まで出る。あのへんの店をぶらぶらし、雑誌を立ち読みしては違う坂道を降りてきて家に帰る、ということを繰り返すようになった。
夕食後はTV三昧。思い出すのは土曜日夜のドリフの「8時だよ全員集合」(私が電子高に入学した1969年の10月から始まった)、それから何曜日だったかコント55号のコントもかかさず観ていては笑い転げていたのだが、そんな私を父親はどんな気持ちで見ていただろう。
まことにもって情けない話だが、これが私の高校1年の時のありのままの姿だった。貴重な青春の一時期を無為無策、無益無駄に過ごしてしまった。勿論、そのつけ、代償は今に至るまで続いている。
公立高校に落ちた時、実は幾つかの選択肢はあったが、私は迷わず電子高に決めた。というのは受験に失敗した身で市内に出ることにはためらいがあって、市内の他の私立に行く気はなかった。そうなると電子高しかない。しかも、始業時間ギリギリまで寝てられるなんてこれ以上言うことはない。勿論、電子高を受けた時はそんなことまで考えていたわけではないが、実際に入学してからこういうことが起きるとは誰が予想しただろう。
まあ、これは自業自得、自分で自分の首を絞めるようなことをしてしまったわけである。
小倉先生の一言
このように毎日ぶらぶら、だらだらしていたから、成績は当然のごとく急降下。2学期目ですでに成績はがくんと下がり、3学期の期末試験の成績は、怠け者の私もさすがに「やばい」と気がつくレベルまでに落ちていた。普段あまり学校のことに口出ししない父親もさじを投げたのか
「大学は入れるところへ入れればいい」という始末。
また3学期のある日だったと思うが、野球部顧問の小倉先生と校門のところでバッタリ遭遇したことがある。その際、先生はたった一言、
「おい、どうだ、勉強の方は。野球部辞めて成績落ちたべ」
と、あたかも私の成績を知っているかのごとく喋ったので正直いってギクッとした。しかし実際はその通りだっただけに「えっ、あ、まあ…」というだけで精一杯。
それにしても先生は何故、私の成績を知っていたんだろう。それとも、口からでまかせで言った可能性もある。ただ、この言葉を私流に言い直せば「野球部を辞めたってどうせろくなことはないんだよ」ということ。そう考えたら、とても惨めで悔しくてそれからずうっと大学に合格するまで頭から離れなかった。その時私は、
『ようし、見ていろ、俺は先生が考えるような人間じゃない!!』
と心の中で叫んでいたような気がする。
今にして思うのだけれども、小倉先生のこの言葉で私はだらだらした生活にいい加減見切りをつけようという気持ちが芽生えたのではないかと思っている。
しかし、どうしたらこういう状況を打開できるだろう。高校生活も、もう一年が過ぎようとしている。受験までもう2年もない。高校受験で失敗したから大学受験で見返してやるぞと誓って電子高に来たのに、このままでは俺はまた大学受験でも失敗することになる。
そこで藁をもすがる気持ちで早速、受験雑誌を買ってきて今の怠惰な生活サイクルを打ち破る方法はないものかと読みあさリ始めた。
そして、旺文社の螢雪時代に出ていたある受験体験記に釘付けになった。
『これっだ!』と叫んだかどうかわからないが、ピ~ンときた。
怠け者は汽車通学に限る
それは片道2時間の汽車通学をしていた磐城高校生が東大に現役で合格したという体験記。汽車通学での時間がいい勉強時間になったという話だった。
怠け者の私にはこれはピッタリの勉強方法だ、というよりもこれに勝る勉強方法はないと直感した。何故なら勉強嫌いの私は机に向かっても長続きせず、すぐレコードをかけたり、雑誌に手を出したり、TVを観たり、腹が減ったといっては台所に行ったり、さらには爪があまり伸びてもいないのに爪を切ったりと全く落ち着きがなく、結局は勉強はほとんど手につかないまま終わってしまうのが常だった。
しかし、汽車ならTVやラジヲがあるわけで無し、レコードプレーヤも無い、台所があるわけでもない。立ち読みする本屋もない。ナイナイづくしだから考えてみればこれほど勉強に適した環境はない。椅子に座ってとにかく本を開けばいい。そしたら2時間は席を立つ場所がないから黙ってでも勉強に集中できる。そしてもう一つ、汽車は石越~小牛田間はがらがらに近いから大きな声を出してもあまり迷惑にならない。これは語学系の英語、古文、漢文の勉強にもいい。
ちょうど実家の近くの国鉄石越駅から仙台駅までほぼ片道2時間。往復で4時間ある。調べてみると、朝一番の汽車で行くと仙台ホテルの前のバス停からすぐ乗って始業時間には十分間に合う、ということが分った。それで2年生から汽車通学することにして、それまでのだらけた生活から、自分を程々に縛り足かせを履かせた規則正しい生活を送ることになった。
その詳しい汽車通学は、次回以降お話しするが、結果的には成功だった。これも、小倉先生のあの一言で感じた「なにくそっ」という悔しさが常にバネになっていたからではないかと改めて感じている。
この紙面をお借りして小倉先生に感謝の気持ちをお伝えしたい。
*余談になるが、この電子高校舎の建設を請け負ったのが父の勤めていた土建会社である。もっとも比較的小さな会社だったから、鹿島や大成のようなところとJV(共同事業)でやったと聞いたような気もするが、そのことと会社の土地が電子高の側にあったことに何の関係があるのかはもうわからない。しかし、そういう事情があったから、父はこの学校の内側をいろいろ知っていたようで、私がこの学校に行くことになった時も「この学校は郵政互助会という郵政省職員の福利厚生団体が運営している。だから資金的にはとてもしっかりしているぞ」とよく私に話していたものである。要するに「この学校は潰れることはないので安心しろ」と言いたかったらしい。
しかし15歳の私は、ただ「ふん、ふん」と聞いているだけだった。
*次回から2年生の思い出に入ります。
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