入学早々11組で一騒動が持ち上がった。
級長に選ばれたC君が「俺がこんなことをしなきゃならないなら、もう級長をやめる」と級長放棄を宣言したのだ。この問題を巡ってクラスはその後、時間外に何度となみなで議論した。しかし、揉めに揉めてなかなか問題は解決しなかった。
なにせ古い話だから、事の顛末は正確に覚えてなくて、例えば、級長がどうやって選ばれたとか、またその時担任の小野寺先生はいたのかいなかったのかとか、また問題が最終的に解決したのかしなかったかもわからない。最後の件は私は途中から野球部の練習に入り議論には参加しなかったせいもあるだろう。
覚えているのはただ次ののようなことである。
級長をやりたくないというC君の気持ちはみな理解していたはずの我がクラスの面々、だが、代わりに級長をやれば今度はその人が「犠牲」になる。だからここは悪いけども貧乏くじを引いたC君に生贄、言葉がちょっとキツ過ぎたか、我慢してやってもらうしかないというのがみなの気持ちだったように思う。だからか誰も代わりに手を挙げる人はいなかった。
級長に選ばれると自動的に、つまり有無を言わせず応援団員にさせられた。そしてしぶしぶ応援練習にいったC君、まず先輩応援団員がやる新米応援団員の練習に参加した。それがC君にとってはもう二度とやりたくないというほど大変だったらしい。「こんなこと」というのがその応援練習だった。
その応援団員だけの練習が実際どういうものだったかは、今となっては当事者のC君に聞くしかないけれど、クラスの生徒はみな想像がついていた。というのは、ほぼ同時に始まった1年生全員参加の応援練習が腰を抜かすほど凄いものだったからで、一般生徒の練習でこうなら、みなのリーダーにならなければならない団員同士の練習なら更に気合の入ったもの凄い練習だっただろうことは容易に想像はつく。
私も野球部の練習が始まる前に何回かこの応援練習に参加したけれど、もう一回でこりごりだったし『こういう練習があることを知ってたら電子高なんか来るんじゃなかった』と後悔したくらいだから、C君の思いはいかばかりだっただろう。
その風景とは…、
放課後、屋上に集めらられた新米の1年生の周りを、怖そうな先輩応援団員が取り囲む。練習が始まるやいなや、団員が動き出す。中には目が釣り上がってすごい形相になる団員がいた。そしてあっちこっち歩きまわっては、今まで聞いたこともないような大声で、
「こらっ、なにやってんだっ、お前ら!!」
「もっと声を出せっ、この野郎!!」
突如、全く予期しなかった恐ろしい場所へ連れて来られたような気持ちになった。怒号、罵声が飛び交い、1年生はビクビク、おどおどしながら練習する。おそらく高校
へ入るまで、こんなふうに人から罵られるように言われた生徒はいなかったので
はないだろうか。
へ入るまで、こんなふうに人から罵られるように言われた生徒はいなかったので
はないだろうか。
はっきり言って、これは恐怖以外の何ものでもない。これじゃあ応援練習というよりシゴキ、といっては悪ければあの帝国陸軍の新兵教育である。まあ、あんまりかわりないか。
目をつけられるのは、大体は座り方が悪いとか、やる気の無さそうな生徒だったと思う。
運悪く私もその目をつけられた生徒の一人だった。例のおっかない先輩応援団員が、私のすぐ目の前につかつかとやってきて吊り上がった目を更に釣り上げ、
「こらっ、何だお前の帽子は!」
と、私の帽子をひったくるように取り上げ、きょろきょろジロジロ裏表見ながら
「なんでこんな帽子かぶってるんだ!!」
一字一句は覚えてないが、そんな風にヒステリックに叫ばれて、私はもう恐怖感で体が凍りついてしまった。その後相手がなんて言ったかとても聞き取れるような状況ではない。ましてや言葉が出るはずもない。ただ、ただじっと身をすくめて無言で時が過ぎるのを待つだけだった。一瞬ひっぱたかれるかとも思ったが、ひっぱ叩かれずに済んだのは不幸中の幸いだった。
ところで何で目をつけられたかというと、私の制帽は穴があっちこっち空いていて、ところどころ適当に縫い目がしてあっったり、白線はズタズタに切れていたりと要するにボロボロだったのだ。
とにかくこんな具合だったからC君にはみな同情はしていたのだ。しかし、だからといってC君のかわりに俺がなってやろうなどという自己犠牲に溢れた生徒もいなかった。
応援はやっぱり怯えながらやるものではない。できたら楽しくやりたいものだと思うし、またできるのだ。実際、私はそういう応援を大学レベルだけれども見ているが、高校レベルでもやろうと思えば絶対できると思っている。せっかく母校が新しい高校として生まれ変わったんだから応援団もそういうスタイルに変えてみるといい。何事もチャレンジだ。やろうと思えば絶対できる。
応援練習というのは抑えるべきところは抑えたら、あとは団員自身のユーモアを交えた話術やパフォーマンスで参加者は自然に盛り上がるもの。その上で団員は参加者を上下の関係で見るのでなく、対等、というより逆に下から目線で「褒めておだてて、やる気を引き出す」ように仕向けて行けばもっともっと盛り上がるはずだ。最強の応援団になることだって不可能ではない。
私はあの先輩団員を責めるつもりは全くない。あの人達も何もわからないままそういうポジションに就いて、言われるまま自分なりの使命感で一生懸命やっていただけだろうと思う。一番理想的なことを言うと、学校側と同窓会、応援団、生徒(会)、保護者などを入れた協議会で応援スタイルを話し合うのがいい。そうすればいろんな知恵が出てくるはずである。折角だから新しいこと、不可能なことに挑戦してほしいものだ。
ところで何故私の帽子はぼろぼろだったのか。その話を最後にしたい。
私は中学生のころからバンカラ=弊衣破帽に憧れていた。この言葉も古くなってしまったかもしれないが、もしわからない人がいたら、例えば仙台一高を始めとする旧制中学校を前身とする伝統校の応援団員を見ればいい。ただし仙台二高は一高への対抗心からスマートな格好をしているが昔はきっと弊衣破帽だったはずだ。
私は県北の栗原市で生まれ育った。中学二年のときから越境入学で仙台の五橋中学に転校したけれども、それはあくまでも学校だけ。小さい時から電子高に入るまでは一番上の兄が通っていた築館高校の生徒が私のいわば高校生のモデルみたいな存在だった。
この高校はかなりのバンカラでまさに弊衣破帽を地で行く生徒が多かった。ボロボロの帽子と制服、ズボンからは手拭がぶら下がり、高下駄で通学というのがごく普通で真冬でも下駄を履くのが正統派の築高生。築館は県内でも寒いところで氷点下15度以下になることもある。兄は冬、下駄は履いていなかったと思うがそれ以外はずっとバンカラで通した。しかも家から築館まで12~13kmも自転車で、まだろくに舗装もしていない道路を通学するものだからバンカラになりたくなくても自然にバンカラになってしまうような時代だった。その兄から「帽子はこのようにズタズタにして、そしてお茶に漬けて、それから~」とかなんとかノウハウを聞くともなしに聞いているうちにだんだんと私もそういう気になっていったのだった。
あの帽子、あれからどうなったか、それも記憶に無い。
終わり
次回は野球部を予定しております。
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