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2015年2月5日木曜日

私の日記から NO5

新しい企画を練っています

お疲れ様です。皆様如何お過ごしでしょ言うか。年が明けたと思ったらもう2月。時が経つのはほんとうに早いですね。50歳過ぎたら時間が過ぎるのがやけに早いなあと感じていましたが、最近はもっと早く感じるのです。それとともに何か焦りみたいなものまで感じてしまいます。

なにしろ私は生来の怠け者、「今日できることは今日中に」ではなく「明日できることは明日」という癖が体に染み付いてしまっていますから、やり残してることがありすぎて一体何から手を付けたらいいのか皆目見当がつきません。といって手をこまねいてばかりいては時間が過ぎるばかり…。

そんな中で談話室ブログはスタートにこぎつけたのですが、何をやっても三日坊主で終わる私が、なんとか年を超すことができました。これは少数ながらも応援してくださる人ができたお陰です。そうでなければ年越し前に挫折していた可能性が十分にありました。この機会に皆様に改めてお礼申し上げます。

それでも未だ慣れないインターネットと格闘しながら、また時にはおっかなびっくりブログをメチャクチャにしてしまうのではないかと恐れおののきながらそろりそろりやっているのですが、今までの投稿記事を目次にして見てみると、結構な分量に達していることがわかりました。その出来不出来は置いておくとして、ブログ初心者にしてはまずまずのスタートだったかな、と自己満足に浸っております。

投稿記事は今までどおり今年も続けていきますが、少し慣れてきたところで2年目はもっと沢山の人を談話室に巻き込んでみたいと、まだ一つしかない「談話室」の間口を広げようと思っています。簡単に言うと次の3つのサービスを新メニューとして加える予定でいるのですが、このうち2,3はオーストラリアに住んでいる同窓生、私以外にもいればその人と私が、1は私を含めた同窓生全員が有資格者と考えてその中から我こそはという方に対応してもらえれば有難いと考えております。

勿論、全てボランティアベースでやります。


1 同窓生及び城南高校生への進路(就職、進学、留学、人生)相談
2 同窓生のオーストラリアワーキングホリデーサポート(生活情報、学校選び、
  仕事の探し方などの情報提供)
3 同窓生の為のオーストラリア観光情報提供 


故郷を離れてみて始めて故郷や親の有り難みに気づく、とはよく言われることですが、遠く海の向こうで生活している私は、毎日このようなことを噛み締めております。

オーストラリアと比べると日本は本当に小さな国ですが、バラエティ豊かな食事、各地に伝わる郷土料理や伝統芸能、都道府県の数以上あるであろう方言をみただけでも、この国の文化はとても変化に富んでいることがわかります。これを称して日本は「駅弁国家」だと私は勝手に呼んでるわけですが、一方のオーストラリアはどうかというと、方言がなく(アメリカは多少南部訛りがある。英国の方言は方言というより民族が違うせい)、子供の頃は魚は年に数回しか食べたことがなかったという私の妻が言うようにこの国の食事は基本的には非常に単調で、今でも一般家庭での食生活は、特に田舎や年齢層の高い家庭になればなるほどじゃがいもと肉中心の単調な食事が毎日毎日続きます。また芸能その他の文化にもローカル色を感じさせるものを私は知りません。そこでこういう国々を私は「金太郎飴国家」と呼んでおります。



今月7日に行われた州議会の選挙で、ある投票所に来た若者達。
ところでこの国では選挙に行かないと罰金が科せられる。SUNDAY MAILから


しかしながら国民性は全く逆で、日本は生活文化の面ではとても変化に富んだ国なのにとても平均的、均質的です。一方の金太郎飴国家の国民性はというと、この点は均質的とは程遠く一人一人がバラバラと言ってもいいほどに個人差が大きく多様です。

こういったことは、日本にだけいてはなかなかわからないもので、やはり違った世界へ飛び込んでみて始めて、世の中にはいろんな人がいて、いろんな生活があるのだと実感できるものだと思います。そして思い込みや偏見を捨て、今までとは違うアングルで物事を振り返えってみると、そこにまた新しい発見があり新しい世界が広がります。

兎に角未知の世界とは、はっとさせられたり、びっくりさせられたりすることが多く、とても面白いスリル満点、魅力一杯の世界といえるでしょう。

そこでこの異文化の面白さ、醍醐味、スリルを同窓生の皆様にも体験してもらいたいと、このような企画を思いつきました。同じ学校で学んだのも何かの縁、それならばオーストラリアに住んでいる同窓生の私をどんどん利用してもらって、その結果皆様のお役に立ち喜んでもらえれるようなことができればこんなうれしいことはありません。

ニュージーランド、オーストラリアにやって来て27年、まだまだ十分ではありませんが、それなりに蓄積した海外生活での知恵や人脈も、少しは皆様の海外体験、異文化体験のお役に立てられるかもしれないと思っております。

オセアニアにお出で頂いて、リフレッシュするなり、まったりするなり、あるいは気が付かなかった自分や周りの世界を再発見して新たなスタート切るもよし。そして明日に向かってまた元気に頑張っていってもらえたらと願っております。

いつとははっきり申し上げられませんが、できるだけ早くこの企画の具体的中身を談話室でご紹介する予定です。



  

2015年1月22日木曜日

私の日記から NO4 「新年のご挨拶と抱負」

遅くなりましたが、電子高、工大高談話室より新年のご挨拶を申し上げます。



12月27日談話室懇親会ホテルレオパレス仙台で相澤氏(右)私(左)
 

先月中旬から昨日まで日本に帰っておりました。この間、談話室はお休みさせて頂きましたことをお詫びいたします。

昨年、このブログを立ち上げ、いろいろ試行錯誤しながらなんとか年をこしたわけですが、拙いブログをお読み頂いている皆様に改めて御礼申し上げます。



この談話室は、


① 戦後の混乱と激動の日本に生きた電子高、工大高卒業生の声無き声
  を集め母校の消え行く歴史の一齣を後輩に語り継ぐ


② 卒業生のネットワークを生かして後輩の将来設計のための精神的、技術的サ      
  ポートをしていく


③ さらには②で培ったネットワークを、電子高・工大高という枠を超えボランティ  
  アなどの諸活動を通じて地域住民に還元していく


つまり最終的には「同窓会を超える同窓会」として活動をしていきたいという壮大な夢を持っております。

この趣旨に沿って、ブログ開設2年目の今年から少しづつ新企画を出して行きたいと考えておりますので、今年も皆様のご協力かた宜しくお願い申しあげます。

  

さて、暮れに談話室の熱心な読者である卒業生、相澤司(電子科、土井亨衆議院議員と同期だそうです)さんをご招待して談話室第一回目の懇親会を開きました。千葉県在住の電子高第一期生の猪股保之様(電子科)はどうしても都合がつかないと出席は叶いませんでしたが、電子高OB、青山佳夫さんが総支配人をやっている仙台駅東口のホテルレオパレス仙台で行いました。


僅か二人だけでしたが大いに食べ、飲み、語り盛り上がりました。但し青山氏は相変わらず多忙でお会いできませんでしたが次回は是非と話しておりました。また今回は勝手がわからなかったのでコメントを寄せてくださる方にのみ声をかけましたが、次回は読者全員を対象にこのブログで懇親会を呼びかけたいと思っております。多数の方の参加をお待ちしております。





2014年12月8日月曜日

投稿記事「電子高と私」2-3 2年9組の思い出


船岡先生と副担任梶野先生
電子高校2年目のクラスは9組。本館の2階だったと思う。端っこで階段のそば。部屋は広かったような気がする。担任は物理の船岡先生。新潟出身で大学院を出てまだ間もなかったと思う。とても真面目できりっとした感じの先生だった。このクラスには副担任がいて公立高校教師を引退してきたと思われるベテランの梶野先生。担当は数学。関西弁で話す先生だった。この先生が実はなかなかの人だった。

担任と副担任は何かと対照的で、一方は真面目一徹で、あまり、というより全く無駄なことは口にせず、ましてや冗談の類は叩かない。授業が特にそうだった。

どうも記憶がはっきりしなくて船岡先生の物理の授業は1年生の時に受けたような気もするが、それはともかくとして、私は文系人間で理系は苦手。特に物理は大の苦手。先生の話はちんぷんかんぷんで何を言ってるか正直言ってわからなった。理解しようと努力する前にそういう話は私の頭がそもそも受付けてくれないのだ。人間には関心があるけれど、物には不感症にできてるらしい。

こうなると、私みたいな人間はじっと我慢して聞くしかないが、それも限界があって1年も続けられるものではない。となると内職するか、朝なら早弁するか、もしくは起きてるふりをして寝るかくらいしか選択肢はない。しかし、先生は話し方、動作に「あそび」というものがない。いわゆる余白というか隙というものがない。だから、何か具合いの悪い場面でも見つかろうものなら「こら~っ、何やってるんだ!!」と鋭い叱声が飛んできそうで、怖くてただただ時間が来るのをじっと待つ以外になかった。

もう一方の梶野先生は、余裕綽々としていて見るからにベテランの雰囲気を醸し出していた。しかし先生に余裕があると生徒にも伝播して緊張感が緩んでしまうもの。それがいい方へ行ってリラックスした雰囲気の中で勉強が捗ればいいが、夜更かし組みや早朝起床組みの生徒にとって緊張感が緩むとは、睡魔への誘いとほぼ同義語であって、勉強が身に入ることと無関係の関係にある。

しかも先生はしばしば話が脱線してしまう。こうなると状況が更に悪化する。寝ることへの罪悪感は消えてしまい猛烈な睡魔が襲ってくるのであった。

その上もう一つ悪いことがった。先生の話し言葉である。
 
先生は関西出身者らしく関西弁で話すのだが、早口で元気のいい浪速や河内弁ではなく優雅でおっとりした京風なものだから、眠りかけてる生徒には子守唄を聴かされているような具合いになる。こうなると、こっくりこっくりするな、という方が無理である。他の生徒にとっても緊張感が緩んでくれば集中力が無くなってヒソヒソ話をし始める生徒が出始める。

しかし、流石だと思ったのは、梶野先生はそこをちゃんと計算していたことだった。他の先生なら

「こら~、静かにしろ」

と正攻法で言うものだけれど梶野先生は違う。

「・」

ほんの一瞬、急に甲高い声で何か言うのだが、早すぎて何といってるか聞き取れない。敢えて言えば「しっ」とか「やっ」というような「音」としか言いようがないのだけれども、それよりも短いのだ。これが絶大な効果を発揮し教室はたちどころに静かになる。

 それまではにこやかに話していた人からは想像もつかない声、いや音に、生徒はびっくりして恐れおののき氷ついてしまう。

経験上多くの人は知ってはいると思うが、その人の普段のイメージや雰囲気からは程遠い言葉なり行動を突如として見せつけられると、相手はあっけにとられて、一体何が起きたか飲み込もうとして沈黙してしまうものである。それが昂じると恐怖でパニックになることもある。

梶野先生はこれを上手く使ってクラスをコントロールしていたのではないだろうか。リタイア組の先生は多かったが、こういう技を披露する先生は梶野先生だけだった。「職人芸」などと大袈裟に言うつもりはないが、なかなか良く考えた技ではなかったかと思う。何十年という教壇体験から自然に身につけたものなのかもしれない。


船岡先生の素顔
私の記憶が正しければ、船岡先生は確かこの年に結婚した。というのは1年の時から一緒に2年9組に移ってきたC君と、もう一人剣道部のU君だったと思うがクラスを代表して結婚式に出席したことを覚えているからだ。特別理由がなければ担任以外の先生の結婚式に出席するはずはない。

 実は結婚前、そのU君とC君と私の3人で西多賀だったか三女高の近くに一人住まいしていた先生を訪ねて行ったことがある。長屋みたいなところで一人住まいしていた先生は、学校で普段見かける生真面目でちょっと近寄り難い面影は全くなく、ニコニコしながらとても嬉しそうに迎えてくださった。そして普段教室では聞けない話を聞いたり、写真を見たりして楽しく過ごした。困ったことがあると親身になって話を聞いて下さったりと、教室ではわからない先生の一面を垣間見る思いだった。

 そういう先生の素顔にすっかり甘えてしまった私は、大学卒業後も訪ねて行ったことがある。いろいろご迷惑もお掛けした。この紙面をお借りしてお礼かたがたお詫びしたい。

最近、船岡先生にお会いする機会があった。昔と全く変わらず若々しくてびっくりした。私はもう白髪だらけ、頭もかなり禿げ上がっている。第三者からみたら、私のほうがむしろ歳上に見えたのではないだろうか。

船岡先生には、いつまでも若々しく元気で第二の人生を楽しんで頂きたいと切に願う次第である。



*次回は他の先生とクラスメイト、その時に起きた出来事などを中心にお話しする予定ですが、再来週の帰国の準備で忙しくなっており投稿が遅れるかもしれません。予めお断りいたします。


 




 




2014年11月30日日曜日

私の日記から N03 「ある同窓生からのメッセージ」   

今回は、談話室へある同窓生からメッセージが入りましたので、それをご紹介します。

私が電子高を強く意識した時  11月12日   相澤 1977年電子高卒

こんにちはケアンズ素晴らしいですね~ケアンズ生活は長いんですか~仙台も今日の最低が0度で冬の曲がり角が一日一日近づいて来てる感じがします。

私が母校電子高をまた意識した経緯が有ります

530日電力ホールで足かけ10年仙台を拠点に活動をしていたアコースティク・デイオ・イケメンズの一人横山君が工大高出身で応援して来た次第です彼らを応援して来た三年間は電子高を強く意識してました。イケメンズの話しになると長くなりますので、今度帰国なさった時続きお話しします

城南高も高校サッカー選手権大会県大会でベスト4入りしました~TVで学校案内をガンガン放送しております。菊池先輩も健康に留意して仕事頑張って下さい。

追伸電子高初の国会議員自民党の土井亨とは同期です。


*相澤様のメッセージへのコメント
心温まるメッセージどうも大変有り難うございます。電子高にもいろんな分野で活躍し
てる人がいるんですね。いつも思うんですが、特に音楽には国境がありません。人の心を捉え、感動させることができるなんて素晴らしいですね。土井氏にも主義、主張はともかく「電子高同窓生もなかなかやるなあ」と言われるような政治家になれるよう頑張って欲しいですね。ところで横山氏はまだ活躍されてるのでしょうか。
 
私はこの同窓生談話室を通し、同窓生の歩んできた歩みを電子高並びに工大高、そして昭和の記録として残したいと考えてやっているわけですが、もう一つ、将来的には二つ目のゴールとして、様々な活動や同窓生のネットワークを活かしながら同窓生や城南高の後輩の応援、サポートをしていきたいと考えております。
 
そして皆様が同窓生の枠を超え、「良き家庭人」として「良き住民」として「良き職業人」としてより一層活躍していって頂きたいと考えております。
 
つまり「電子高・工大高同窓生談話室」を超える「電子高・工大高同窓生談話室」にしていきたい、これが私の願いです。
 
今後とも皆様からのご協力、宜しくお願い申し上げます。

2014年11月26日水曜日

投稿記事「電子高と私」2-2 汽車通学が始まった

 汽車通学が始まった   いよいよ師走に入ります。最後まで頑張りましょう!   
私が汽車通学を始めたのが1970年(昭和40年)で大阪万博があった年である。私が利用した汽車はもう電化されていたが、車両は蒸気機関車時代のままのもので全て対面式。車両は今に比べたら長く、短い汽車でも6両編成くらいはあったと思う。私の利用した列車は朝の一番混む時間帯に走るのでかなり長かった。10両以上はあっただろう。それでも瀬峰駅、小牛田駅でかなり乗ってきて鹿島台駅を過ぎると空席がめっきり少なくなる。塩釜駅を過ぎるとほぼ満席になり山王駅、岩切駅から乗る人は座るのはまず無理だった。
 

10両編成で前沢-折居を走る 画像提供「80s 岩手県のバス“その頃”」http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/

この2年前に東北本線が全面電化されたが、陸羽東線ではまだ電化されていなかったからー今でそうかもしれないがー小牛田駅では蒸気機関車を時折見かけた。冬になるとラッセル車がよく停まっていた。
 
当時この駅にはまだ駅弁売りがいて、小牛田駅の名物は小牛田饅頭。この饅頭を食べたことのない人は私の町ではまずいなかっただろう。今でも駅の売店で売っている。また3年生の時、帰りに空腹が我慢できず駅弁を買って食べたことが一度だけある。それから、ここの駅の名物は饅頭だけではない。アイスクリームが美味しく今でもあの味が忘れられない。スーパーやコンビニで売っている高いアイスクリームよりとてもミルキーで自然な味がする。もっとも、今小牛田で同じアイスクリームを売ってるかどうかわからない。

車両の中
「80s 岩手県のバス“その頃”」から
 
さて、私が乗り降りした石越駅というのは宮城県の北のはずれにあって岩手県境から何キロと離れていない。石越駅の一つ先の駅は油島というが、ここはもう岩手県の花泉町になる。この町の高校や一関市の高校へ、当時、今もそうだと思うが石越駅から沢山通学していて、駅前の貸し自転車屋はいつも一杯だった。

私が朝利用した列車は石越駅を6時11分に出た。それに間に合うように5時半前には起きて、急いで身支度し顔を洗って朝ごはんを食べる。そして5時50分には自転車で家を出た。石越まで2kmの道のりは、幸いにして平坦で舗装道路だし10分とかからない。

石越駅
http://jp.worldmapz.com/photo/379239_ru.htm
貸し自転車屋に自転車をおいて6時過ぎに駅に着くといつもの人間が集まってくる。仙台まで2時間かかるから通勤する人は多分いなかったと思うが、通学する人は10~15人位はいただろう。でもほとんどは学院などの大学生だから毎日6時11分の汽車で行くわけではない。

毎日顔を合わせるのは予備校生2人と高校生2人の計4人だけ。この4人は今でもよく覚えている。予備校生は私の同級生のお兄さんで地元の高校を出た人。2浪目だったが翌年東北大に合格した。もう一人は築館高校卒の人でちょっと風変わりな人だった。高校生は私と仙台電波高の3年生。
当時の仙台駅

汽車は石越駅を出て仙台に着くのが8時過ぎ(正確な時間は忘れた)。この汽車を逃すと次の汽車では学校は間に合わないが、2年間汽車が遅れたことが一度もなかった。これは実に幸運だったとしかいいようがない。

仙台に着くと急いで駅を出て仙台ホテル前のバス停からバスに乗って8時半過ぎに学校へ着く。

船岡先生と副担任梶野先生
電子高校2年目のクラスは9組。本館の2階だったと思うが端っこで階段の側。部屋は広かったような気がする。担任は物理の船岡先生。新潟出身で大学院を出たばかりという感じのいかにも真面目そうな先生。このクラスには副担任がいて公立高校教師を引退してきたと思われるベテランの梶野先生。担当は数学。関西弁で話す先生だった。この先生が実はなかなかの人だった。

(つづく)
 

 

 
 









2014年11月19日水曜日

投稿記事「電子高と私」2-1 汽車通学

いよいよ、2年生の思い出に入ります。

汽車と私の馴れ初め
そんなわけで、私は2年の時から汽車通学を始めることになった。それにしても、三日坊主で大の怠け者である私は、それまでのだらだらした生活から180度違う規則正しい生活を送ることが果たしてできたのだろうか。
 
今までと違い朝5時半に起きなければならないし、仙台まで片道2時間椅子に座り続けなければならない。それから仙台に着いたらバスにも乗らなければいけない。今までは家から学校まで1分弱で済んだ通学時間が、今度は3時間近くかかることになる。生活サイクルをそんなに大きく変えることに全く不安はなかったのかと尋ねられそうだが、実のところ全くなかった。むしろワクワクしていたくらいである

実は私は汽車が大好きで、子供の頃、一番最初に夢見た職業は汽車の運転手だった。お金を払うどころか、逆にお金を貰って旅ができるなんてこれほどいい仕事はない、と子供心に思っていた。それはNHKTV番組「みんなの歌」から流れていた「線路は続くよどこまでも」に多分に影響された面もあったように思う。なんでもこの番組は昭和36年4月に始まったそうで、つまりは私が小学校2年生になった時。我が家にTVが入ったのはそのちょっと前だったからほぼ同時期だったといっていい。
 
それで思い出したことがあるので、昭和が遠くなりゆく今、当時を知らない若い人のためにと、ちょっと回り道をしてみよう。

我が家にTVが入った頃、家はまだ茅葺き屋根で囲炉裏もあった。風呂と便所は母屋からはちょっと離れていた。風呂はまだいいとしても便所までちょっと歩かなければいけなかったということは、今考えてみると随分と不便な生活をしていたんだなあとあらためて思う。

ところで便所と言いうとなんとなく汚いイメージになってしまうのでトイレと言いたいところだが、水洗では勿論ないし、あれはまぎれもなく便所としか言いようない。

寒い冬、私の住んでた町は築館よりは幾らか暖かい場所だが、それでも当時だったら朝晩の寒い時で氷点下10度以下になることはあっただろう。そんな時、掘っ立て小屋よりも粗末な隙間だらけの便所で用を足していたのだから、今これを書きながらとても信じられない気持ちになってしまった。よくそれで不満も言わず生活していたものだ。

でも当時はテレビがあるわけでなし、他所の生活がどんなだったかもわからない。それが当たり前の生活だと思って暮らしていたわけである。

食生活も全く質素そのもので、夜は囲炉裏で雑炊やすいとん(家では「つめり」と呼んでいたが、これは宮城県北から旧伊達藩の水沢・江刺当たりまでの呼び方だったらしい)をよく食べた記憶がある。小学校低学年の時、弁当に卵焼きが入っているとそれはご馳走の部類だった。

田舎の子供の憧れ
食事時は皆でラジヲをよく聞いていた。その頃ラジヲから流れていた歌ですぐ思い出すのは島倉千代子の「からたち日記」と、歌手は覚えてないが(調べたら倍賞千恵子と書いているが)「母さんの歌」である。「母さんの歌」はよく流れていたので、今でも歌詞の一番目はすらすら出てくる。それで歌詞の2番目以下まで拾ってみたら、
        

       1 母さんは夜なべをして手袋編んでくれた
         木枯らし吹いちゃ寒かろうとせっせと編んだだよ
         故郷の便りは届く
         囲炉裏のにおいがした

       2 (略)
         (略)
         故郷の冬は寂しい
         せめてラジヲを聞かせたい

       3、4 以下略


2番目は「せめてラジヲを聞かせたい」で終わっている。私の母が手袋を編んだことがあったかどうか忘れたが、それ以外は私の家と変わらない風景だったのでちょっと驚いてしまった。でも考えてみれば、当時どの家も大なり小なり似たようなものだった。

そんな私の田舎にもその頃、TVが急に普及し始めた。近所では最初に床屋にTVが出現した。珍しくてそれ見たさに、時々出かけて行って窓越しにTVを見た。しかし、プロレスなどの人気番組がある時は、沢山人が集まってくるので私のような子供は背が低いから混んでて見られなくなる。そんな時は道路隔てて反対側にある神社の塀や木に登ったりして見ていたものである。

そしてやっと我が家にTVが入ったのが小学校1年生の時。そしてほどなく始まったのが先ほどの「みんなの歌」だった。私の大好きな歌番組だったから毎回TVを食い入るように見ていた。


この歌番組では「線路は続くよどこまでも」を始めとして「おお牧場は緑」や「森へ行きましょう」とか「大波を超えて」とか綺麗な景色が、東京放送児童合唱団や西六郷少年合唱団のコーラスとともに目の前に次から次へと飛び込んでくる。それらはラジオでは絶対に味わえなかった映像の世界だった。それまで遠くといえば母親の実家がある一関くらいしか連れてってもらったことがなかった私には、TVに映る風景は今まで見たこもない綺麗な景色ばかりで、全てがきらきら眩しいほどに輝いていた。「線路は続くよどこまでも」を聴きながら、私も列車でそんな土地へ行ってみたい、という気持ちが芽生えるのは当時の田舎の子供達だったらごく自然のことだったのかもしれない。
 
  
*次回は「汽車通学が始まった」(仮称)をお送りします。
 
*いろり画像:http://irori.yuyado.net/vacancy/planlist.html
*線路画像;http://8quest.net/weblog/photolog/2142


2014年11月4日火曜日

私の日記から ケアンズ紹介 11月01日


私の日記から 「ケアンズというところ」  11月最初の日記です!
  
私が住んでいるケアンズについて、この日記を借りて時々お話したいと思います。

ケアンズはオーストラリアの北部東海岸に位置する人口約17万人の観光地。緯度で言うとフィリピンのマニラくらいの位置に相当します。雨季は12月末から3月一杯。サイクロン(台風)は数年に一回程度やってきます。乾季は6月から11月頃まで。

シドニーから飛行機で約3時間、ニューギニアの首都から2時間ここは世界一のサンゴ礁で知られたグレートバリアリーフの玄関口で、日本からは直行便が成田と関空から毎日出ています。飛行時間は約7時間半。日本との時差は1時間。

産業は観光の他にサトウキビ、近郊ではコーヒー、マンゴー、バナナなどの熱帯系の果樹栽培が盛んです。

そこで今日は、ケアンズの街と今季節を迎えているマンゴーの写真をお届けします


カジノから向こう岸の眺め

手前HILTON HOTEL


いずれも家の近くのマンゴー
フィッツロイ島のツアーパンフから