汽車通学が始まった いよいよ師走に入ります。最後まで頑張りましょう!
私が汽車通学を始めたのが1970年(昭和40年)で大阪万博があった年である。私が利用した汽車はもう電化されていたが、車両は蒸気機関車時代のままのもので全て対面式。車両は今に比べたら長く、短い汽車でも6両編成くらいはあったと思う。私の利用した列車は朝の一番混む時間帯に走るのでかなり長かった。10両以上はあっただろう。それでも瀬峰駅、小牛田駅でかなり乗ってきて鹿島台駅を過ぎると空席がめっきり少なくなる。塩釜駅を過ぎるとほぼ満席になり山王駅、岩切駅から乗る人は座るのはまず無理だった。
10両編成で前沢-折居を走る 画像提供「80s 岩手県のバス“その頃”」http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/ |
この2年前に東北本線が全面電化されたが、陸羽東線ではまだ電化されていなかったからー今でそうかもしれないがー小牛田駅では蒸気機関車を時折見かけた。冬になるとラッセル車がよく停まっていた。
さて、私が乗り降りした石越駅というのは宮城県の北のはずれにあって岩手県境から何キロと離れていない。石越駅の一つ先の駅は油島というが、ここはもう岩手県の花泉町になる。この町の高校や一関市の高校へ、当時、今もそうだと思うが石越駅から沢山通学していて、駅前の貸し自転車屋はいつも一杯だった。
私が朝利用した列車は石越駅を6時11分に出た。それに間に合うように5時半前には起きて、急いで身支度し顔を洗って朝ごはんを食べる。そして5時50分には自転車で家を出た。石越まで2kmの道のりは、幸いにして平坦で舗装道路だし10分とかからない。
貸し自転車屋に自転車をおいて6時過ぎに駅に着くといつもの人間が集まってくる。仙台まで2時間かかるから通勤する人は多分いなかったと思うが、通学する人は10~15人位はいただろう。でもほとんどは学院などの大学生だから毎日6時11分の汽車で行くわけではない。
石越駅 http://jp.worldmapz.com/photo/379239_ru.htm |
毎日顔を合わせるのは予備校生2人と高校生2人の計4人だけ。この4人は今でもよく覚えている。予備校生は私の同級生のお兄さんで地元の高校を出た人。2浪目だったが翌年東北大に合格した。もう一人は築館高校卒の人でちょっと風変わりな人だった。高校生は私と仙台電波高の3年生。
当時の仙台駅 |
汽車は石越駅を出て仙台に着くのが8時過ぎ(正確な時間は忘れた)。この汽車を逃すと次の汽車では学校は間に合わないが、2年間汽車が遅れたことが一度もなかった。これは実に幸運だったとしかいいようがない。
仙台に着くと急いで駅を出て仙台ホテル前のバス停からバスに乗って8時半過ぎに学校へ着く。
船岡先生と副担任梶野先生
電子高校2年目のクラスは9組。本館の2階だったと思うが端っこで階段の側。部屋は広かったような気がする。担任は物理の船岡先生。新潟出身で大学院を出たばかりという感じのいかにも真面目そうな先生。このクラスには副担任がいて公立高校教師を引退してきたと思われるベテランの梶野先生。担当は数学。関西弁で話す先生だった。この先生が実はなかなかの人だった。
(つづく)
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