3 44年ぶりのお詫び
学校が始まって2,3か月くらいの時だったと思う。1年生の生徒会リーダー(確か斉藤君という生徒)がある紙を持って11組にやって来た。紙は仙台三高生のアンケート結果だった。
彼はその時、三高と電子高で生徒会の交流があるのだとまず前置きをして、そのアンケートの中身を話していった。その中で一つだけ覚えていることある。「三高ではうるさいクラスが一つもない」と。
小学校、中学校と9年間、クラスがうるさいと思ったことは私の記憶では一度もない。だからか電子高に入ってうるさい授業が多くて少々閉口した。それで段々うんざりし始めていた時だったからか、このアンケートの話が妙に頭に残ったようである。
静かなクラスは蔦先生や新海先生の授業。地学はまあまあだったように思う。あとはどの授業がどれだけうるさかったかと聞かれると実はあまり覚えていない。でも間違いなく、しかもとびきりうるさかった授業があった。それだけははっきり覚えている。
それは音楽の授業だった。
先生は女性。確か石巻の出身と記憶している。30前後のいかにも真面目そうで綺麗な人だった。ただ、彼女にとっての不幸は選んだ場所が悪かったことだろう。それとも誰かに引っ張られてしぶしぶ電子高に赴任してきたのかもしれないが。
普段でもうるさい1年11組が、この時はさらにうるさくなる。そして授業にならないこともしばしば起きた。その度に先生は立ち往生し生徒に注意する。だが、声は細くてよく聞こえない。だから生徒は馬耳東風。その繰り返しだった。しまいにはこの先生、ほんとうに疲労困憊し、もうこれ以上耐えられないという顔で呆然と立ち尽くしてしまったことがある。
あの時、先生は間違いなく泣いていた。
あの痛々しい姿を見せた先生に何もできなかった私達。今更ながら自分が情けない。これを書きながら何十年も前の話だというのに悔しさが込み上げてくる。先生は私の何十倍も悔しかっただろうに。
確かそれが嫌になってその後電子高を辞めたとか辞めないとか、そんな話を聞いたことがある。本当に我々は申し訳ないことをしてしまった。
もっともこの授業は、時々レコードを聞かせるもののクラシック音楽ばかり。それ以外は先生が話し、生徒はただ聞くだけの一方通行、まあ、この辺りは他の授業もそうなのだけれども。その上受験にも関係ない、となるとただでさえうるさい生徒は余計だらけてくるものである。
しかし、教師たるものはー尤も私は素人だから詳しくは知らないがーそういう生徒もいることを想定し話し方に抑揚や強弱をつけたり、あるいは生徒を授業に引きこむための工夫、例えば質問し考えさせ調べさせるとか、いろんな教材、例えばクラシック以外の曲も聴かせるとか、楽器を使った練習させそのあとプレゼンテーションさせるとか教え方にいろいろ工夫を取り入れることを大学で学んでくるものだと思う。宮城教育大学なら当然そういうことをするだろう。が、この先生は東北大の教育学部を出た人だった。ここは教員養成のための学部ではないから、あまりそういうところまでは深く訓練してこなかったのかもしれない。それにあの先生は育ちが良さそうで、「悪ガキ」が集まるような世界とは無縁のまま電子高に赴任して来てしまったのかもしれない。
しかし、一人の人間、しかもか弱き女性が目の前で泣いているというのに見て見ぬふりをしていいわけがない。16歳ともなれば昔なら立派な大人。ここで「うるさい!静かにしろ!」と言って静かにさせるのが武士の情け、惻隠の情というものではないか。
でも、私はしなかった。ということは、案外私もうるさい生徒の一人だったのでは…、
『いや、それは絶対ありえない』
『いや…、なかった…はずだ』
『いや……、なかった……と思う』
『おい、おい、だんだん怪しくなってきたではないか。一体どっちなんだ』
でもそんなことはどうでもよい。自分一人おとなしかったとしても、結果的に皆んなで先生に迷惑をかけてしまっことに変わりはない。兎に角、今からでもいい。この場を借りて先生にお詫びすることだ。
過ちては則ちなんとか、というではないか。
と、この場を借りて1年11組のクラス全員を代表してお詫びすることにした。
「先生、本当にすみませんでした。ごめんなさい!!」
先生、いつまでもお元気で。
*次回予告:1年目の「先生の思い出」はこれで終わり。「1年目の思い出日記」は、これから「応援団」「野球部」へと入っていく予定です。…
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