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2014年9月30日火曜日

投稿記事「電子高と私」先生の思い出



1 先生の思い出

私のクラスは1年11組。増築された建物で電子高校舎の一番南側に建っていた。11組は2階のそのまた一番端っこで確かバレーボールコートのすぐ傍だったと思う。休み時間はよく外へ出て級友と駄べったりしたことが懐かしい。

クラスは50人くらいはいただろうか、結構大きなクラスで県内はもとより青森から来た生徒もいた。加藤君といったか。

彼は「青森東高受かったんだけど、ある人から電子高がいいからと薦められてこっちへ来た」とよく言っていた。工大推薦があることが理由だったらしい。

担任は小野寺先生。体の大きい、しかし、やさしそうな人柄だった。確か日大出で相撲部にいたとかいなかったとか。そう言われてもなるほどと信じて貰えそうな大きな人だった。でも電子科で社会を教えていたので、我々に接する時間が少なく先生には悪いが私にはあまりこれといった記憶がない、と思ったら一つ思い出した。


クラスに大変元気のいい生徒がいて、何が原因だったか全く覚えてないが、小野寺先生に何度か不満をぶつけるというか、私には絡むようにも思えたことが度々あった。しかし、先生はとても温厚な人だったから決して言い返すようなことがなく、それがよかったのかどうか、その生徒のほうからなんとなく身を引くような形で収まるのが常だった。

その生徒にとっては暖簾に腕押しだったのかどうか、今となってはわからない。そうだとすると小野寺先生もなかなかの戦略家だったか。それともただ話がかみ合わなかっただけのか。

もう一人、よくクラスで何か事が起きるとよく発言していた元気のいい生徒がいた。S君という生徒で東京の大学に入ったとか人づてに聞いたことがある。結構話が上手くてよどみなく喋るので、口下手な私はいつも羨ましげにただ聞いているだけだった。


他の教科では名前を忘れた先生もいるが授業そのものはよく覚えている。その中から印象に残っている教科と先生を拾って見ると…、


数学の中島先生。おそらくどこかの公立高校を終えてから電子高に再就職された方だったと思う。この先生、いつもニコニコ顔で笑みを絶やさない人だったが、幾何の苦手な私は先生の笑顔とは裏腹に楽しいとは言い難い授業であった。

国語は40代のメガネをかけた小柄な先生で、非常に熱心に教えてくださった。小さい漢字帳を生徒に配りよく豆テストをやってくれたことが懐かしい。電子高で教えてもらった先生の中で豆テストをした唯一の先生だったと記憶している。中島先生には悪いがこの授業は割りに楽しく充実した時間を過ごせたように思う。


英語は新海先生。網走出身で東北学院大の英文科出身。確か大学院を出たばかりで、この先生も熱心さでは誰にも負けない熱血漢。熱心なあまり不真面目な生徒をみると「雷」が落ちるので私はいつも緊張しながら受業を聞いていたものである。もう40年以上も経ってるし先生も退職されているが、「雷」についてそれ以上の具体的に描写することは差し控えたい。が、それ以来「網走」と聞いただけで本当に恐怖を感じるようになってしまった

ただ先生の名誉のために言うと、それだけ先生は熱心だったわけで煩い授業の多かった私は助けられた面が大きい。それにわからないことは熱心に教えて下さった先生でもある。おかげで英語は嫌いにならず済んだのだから新海先生には本当に感謝している。






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